2011年10月
米国が外交政策の中心として国防より経済を掲げるときは要注意
10月28日付けの大前研一さんのニュースの視点は『ロバート・ガルビン氏が死去〜巨人の死とこれからのアメリカ外交』と題する記事である。概要を自分なりに纏めると以下のようになる。
1.米通信機器大手モトローラ・モビリティとモトローラ・ソリューションズは12日、分割前のモトローラで会長兼最高経営責任者(CEO)を務めたロバート・ガルビン氏が11日、89歳で死去したと発表した。創業家出身で、90年に会長を退任するまでモトローラの経営をリードした。モトローラを通信機器や半導体を含めた世界有数の電機大手に育てた。
2.ガルビン氏は、日米貿易交渉でその名を轟かせた人物である。特に日米半導体協定交渉では米国側代表の一員として大きな影響力を発揮し、日本側の代表の一員であったソニーの盛田昭夫氏と交渉した。これによって日本は半導体を失うという結果につながった。日本にとってみれば「悪役」的存在であった。
3.盛田氏がガルビン氏と手打ちの条件として合意したのは、少なくとも日本が半導体の2割を海外から購入するというものだった。日本市場での海外製品の比率を高めるために、日本は韓国へライセンスを渡し、LG電子やヒュンダイに作らせることにした。今となってみれば、日本が半導体で韓国に脅かされるキッカケになった。
4.盛田氏とガルビン氏は非常に仲が良かった。客観的に見てガルビン氏は日本にとって厄介な存在だった。半導体関係だけでなく、通信関係で日米関係がこじれたときにも、常にガルビン氏の存在があった。
5.携帯電話が普及し始めた頃、関西ではいわゆる「モトローラ方式」という、全国一律のフォーマットから外れたものが普及したが、これはガルビン氏の働きかけによって米国からの政治的圧力がかかった結果であった。
6.ガルビン氏は「政商」のように動き、日本への圧力をかけ続けた人物である。日本に市場開放、自由貿易を求め続けたアメリカ合衆国通商代表部(USTR)のカーラ・ヒルズ氏なども、「政商」ガルビン氏からみれば上手に利用した相手だった。日米貿易の歴史を振り返ると、忘れることができない巨大な存在である。日本は30年間に渡ってガルビン氏に振り回され続けた。
7.クリントン米国務長官は14日、インドやブラジルなどの新興国は経済を外交政策の中心に据えており、米国も見習う必要があると指摘した。強い経済が世界における米国の指導力を支えてきた。外交政策のあらゆる側面に経済の視点を取り入れる。米国が外交政策の中心として経済を掲げるときには要注意である。
8.基本的に、米国の外交政策の中心は国防にある。様々な理由があるが、結果として米国が多くの戦争に参加する点を見ても、国防ロビーの人たちが外交を支配していると言える。 その米国が外交政策の中心として経済を重視するのは間違いない。外国に対する圧力をかける時である。かつての日米貿易戦争、現在の米国から中国への働きかけを見ても理解できる。 そしてこの動きは一時的なものであり、またすぐに国防が外交政策の中心に据えられる。
9.英フィナンシャル・タイムズ紙が「米国が中国に覇権を譲る日」という論文を発表した。 その中で発表されていた米中のGDP推移予測によると、今後25年〜30年かけて、購買力はドルベースでも中国が米国のGDPを上回るとされている。
10.現時点で米国が経済に注力したいと感じるのは、中国の台頭によるところが大きい。、日本のGDP推移予測を見ると、中国どころか米国にも大きく及ばず、ほとんど横ばいが続くと見られる。ただし、中国や米国が伸び悩む可能性もある。かつて米国の未来学者ハーマン・カーン氏は、2000年には日本が米国をGDPで上回る。21世紀は日本の時代だ。と述べていた。
1.米通信機器大手モトローラ・モビリティとモトローラ・ソリューションズは12日、分割前のモトローラで会長兼最高経営責任者(CEO)を務めたロバート・ガルビン氏が11日、89歳で死去したと発表した。創業家出身で、90年に会長を退任するまでモトローラの経営をリードした。モトローラを通信機器や半導体を含めた世界有数の電機大手に育てた。
2.ガルビン氏は、日米貿易交渉でその名を轟かせた人物である。特に日米半導体協定交渉では米国側代表の一員として大きな影響力を発揮し、日本側の代表の一員であったソニーの盛田昭夫氏と交渉した。これによって日本は半導体を失うという結果につながった。日本にとってみれば「悪役」的存在であった。
3.盛田氏がガルビン氏と手打ちの条件として合意したのは、少なくとも日本が半導体の2割を海外から購入するというものだった。日本市場での海外製品の比率を高めるために、日本は韓国へライセンスを渡し、LG電子やヒュンダイに作らせることにした。今となってみれば、日本が半導体で韓国に脅かされるキッカケになった。
4.盛田氏とガルビン氏は非常に仲が良かった。客観的に見てガルビン氏は日本にとって厄介な存在だった。半導体関係だけでなく、通信関係で日米関係がこじれたときにも、常にガルビン氏の存在があった。
5.携帯電話が普及し始めた頃、関西ではいわゆる「モトローラ方式」という、全国一律のフォーマットから外れたものが普及したが、これはガルビン氏の働きかけによって米国からの政治的圧力がかかった結果であった。
6.ガルビン氏は「政商」のように動き、日本への圧力をかけ続けた人物である。日本に市場開放、自由貿易を求め続けたアメリカ合衆国通商代表部(USTR)のカーラ・ヒルズ氏なども、「政商」ガルビン氏からみれば上手に利用した相手だった。日米貿易の歴史を振り返ると、忘れることができない巨大な存在である。日本は30年間に渡ってガルビン氏に振り回され続けた。
7.クリントン米国務長官は14日、インドやブラジルなどの新興国は経済を外交政策の中心に据えており、米国も見習う必要があると指摘した。強い経済が世界における米国の指導力を支えてきた。外交政策のあらゆる側面に経済の視点を取り入れる。米国が外交政策の中心として経済を掲げるときには要注意である。
8.基本的に、米国の外交政策の中心は国防にある。様々な理由があるが、結果として米国が多くの戦争に参加する点を見ても、国防ロビーの人たちが外交を支配していると言える。 その米国が外交政策の中心として経済を重視するのは間違いない。外国に対する圧力をかける時である。かつての日米貿易戦争、現在の米国から中国への働きかけを見ても理解できる。 そしてこの動きは一時的なものであり、またすぐに国防が外交政策の中心に据えられる。
9.英フィナンシャル・タイムズ紙が「米国が中国に覇権を譲る日」という論文を発表した。 その中で発表されていた米中のGDP推移予測によると、今後25年〜30年かけて、購買力はドルベースでも中国が米国のGDPを上回るとされている。
10.現時点で米国が経済に注力したいと感じるのは、中国の台頭によるところが大きい。、日本のGDP推移予測を見ると、中国どころか米国にも大きく及ばず、ほとんど横ばいが続くと見られる。ただし、中国や米国が伸び悩む可能性もある。かつて米国の未来学者ハーマン・カーン氏は、2000年には日本が米国をGDPで上回る。21世紀は日本の時代だ。と述べていた。
国防費を削減し資源を再配分したことか景気回復に繋がった
「内橋克人著:もうひとつの日本は可能だ、光文社、2003年」の「第3章:強さのなかの弱さ」の「アメリカの対極イスラムの思潮」の小節は示唆に富む内容である。印象に残った部分の概要を自分なりに補足して纏めると以下のようになる。
1.バブル崩壊後の構造的停滞に苦しむ日本経済とは逆に、アメリカ経済はつい最近までニューエコノミーに湧いていた。そのアメリカの好況を例に挙げて「財政赤字、恐るるに足らず」と野党総欠席のまま国会での施政方針演説を行ったのが、当時の小渕恵三首相である。しかし、そのアメリカの好況、そして財政赤字の解消は、冷戦構造崩壊後、同国政府が踏み切った「平和の配当」に大きく負うものであった。
2.当時の小渕首相は施政方針演説で「世界のどこを探してもモデルは存在していない」と国民に覚悟を求めながら、実際には、その「存在していない」はずのモデルを都合よくアメリカ」に求めていた。
3.未曾有の財政赤字に苦しんでいた米国は史上空前の黒字を記録することになったが、その理由を「史上最長の景気拡大」と主張していた。アメリカ・モデルにならって、自らの政権の史上最悪の赤字財政・予算を正当化する根拠としていた。歴史的な背景が視野の外であった。
4.アメリカの財政再建は『平和の配当』に多くを負っている。10年前、冷戦構造が崩れ、東西新時代が始まろうとするころ、時のブッシュ政権と議会はいかに大胆に国防費を削減するか、削減された予算はどこに振り向けるべきか、議論に精力を注がざるを得なかった。
当時、アメリカの総兵力210万人、国防費は2860億ドル、国民総生産(GDP)の6%にも達していた。それを軍事力の全分野で削減に手をつけ、以後の5年で国防費支出を国内総生産の4%水準にまで縮小する、と大統領は宣言した(1990年1月)。
5.92年度からの5年間で国防費の実質削減額を1800億ドルにする、というものであり、目標は実質3年で達成された。「平和の配当」は教育、環境、医療、住宅、研究開発などの分野に、そして何よりも財政赤字の削減に振り向けられた。「強いアメリカ」をスローガンにレーガン軍拡がもたらした財政破綻の修復に当時のアメリカ政府は賭けたといえる。IT(情報・通信技術)のイノベーションにしても、そのような削減と再配分がもたらした成果である。
6.史上最長の景気回復があったから財政再建が実現したのではなく、赤字そのものを膨張させる国防費を削減し、それによって得られた資源の再配分を決行したことか景気回復の強い触発剤になった、というのが事の真実である。東西冷戦構造の崩壊という大きな国際的、歴史的転換が背景にあり、アメリカ政府がそれに適応せざるを得なかったのである。
7.絶好調と言われたアメリカもまた決してモデルではありえない。確かに、ピーク時の92年度に2900億ドルを記録した財政赤字が、いまでは黒字転換し、1760億ドルもの黒字を見込めるまでに改善された。それは事実である(2000年度見通し)。連邦政府は、2013.年に無借金となり、政府債務の減少にともなう利払い負担の減少分は社会保障基金の強化に当てるとしている。
8.財政破綻寸前、税収の45.8%以上を国債費(国債の利払いと償還)に消尽せざるを得ない日本に比べ、首相ならずとも羨望の的と映っておかしくはない。けれども、その一方で、アメリカの貿易赤字は過去最大を更新して2723億ドル。わずか1年で65%以上もふえ、1999年度の経常収支の赤字3千億ドル超は確実となった。
もうひとつの日本は可能だ
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1.バブル崩壊後の構造的停滞に苦しむ日本経済とは逆に、アメリカ経済はつい最近までニューエコノミーに湧いていた。そのアメリカの好況を例に挙げて「財政赤字、恐るるに足らず」と野党総欠席のまま国会での施政方針演説を行ったのが、当時の小渕恵三首相である。しかし、そのアメリカの好況、そして財政赤字の解消は、冷戦構造崩壊後、同国政府が踏み切った「平和の配当」に大きく負うものであった。
2.当時の小渕首相は施政方針演説で「世界のどこを探してもモデルは存在していない」と国民に覚悟を求めながら、実際には、その「存在していない」はずのモデルを都合よくアメリカ」に求めていた。
3.未曾有の財政赤字に苦しんでいた米国は史上空前の黒字を記録することになったが、その理由を「史上最長の景気拡大」と主張していた。アメリカ・モデルにならって、自らの政権の史上最悪の赤字財政・予算を正当化する根拠としていた。歴史的な背景が視野の外であった。
4.アメリカの財政再建は『平和の配当』に多くを負っている。10年前、冷戦構造が崩れ、東西新時代が始まろうとするころ、時のブッシュ政権と議会はいかに大胆に国防費を削減するか、削減された予算はどこに振り向けるべきか、議論に精力を注がざるを得なかった。
当時、アメリカの総兵力210万人、国防費は2860億ドル、国民総生産(GDP)の6%にも達していた。それを軍事力の全分野で削減に手をつけ、以後の5年で国防費支出を国内総生産の4%水準にまで縮小する、と大統領は宣言した(1990年1月)。
5.92年度からの5年間で国防費の実質削減額を1800億ドルにする、というものであり、目標は実質3年で達成された。「平和の配当」は教育、環境、医療、住宅、研究開発などの分野に、そして何よりも財政赤字の削減に振り向けられた。「強いアメリカ」をスローガンにレーガン軍拡がもたらした財政破綻の修復に当時のアメリカ政府は賭けたといえる。IT(情報・通信技術)のイノベーションにしても、そのような削減と再配分がもたらした成果である。
6.史上最長の景気回復があったから財政再建が実現したのではなく、赤字そのものを膨張させる国防費を削減し、それによって得られた資源の再配分を決行したことか景気回復の強い触発剤になった、というのが事の真実である。東西冷戦構造の崩壊という大きな国際的、歴史的転換が背景にあり、アメリカ政府がそれに適応せざるを得なかったのである。
7.絶好調と言われたアメリカもまた決してモデルではありえない。確かに、ピーク時の92年度に2900億ドルを記録した財政赤字が、いまでは黒字転換し、1760億ドルもの黒字を見込めるまでに改善された。それは事実である(2000年度見通し)。連邦政府は、2013.年に無借金となり、政府債務の減少にともなう利払い負担の減少分は社会保障基金の強化に当てるとしている。
8.財政破綻寸前、税収の45.8%以上を国債費(国債の利払いと償還)に消尽せざるを得ない日本に比べ、首相ならずとも羨望の的と映っておかしくはない。けれども、その一方で、アメリカの貿易赤字は過去最大を更新して2723億ドル。わずか1年で65%以上もふえ、1999年度の経常収支の赤字3千億ドル超は確実となった。
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2011年10月29日
組織体の調和が事実に優先される日本という国の末路
「宮本政於著:お役所の精神分析:講談社、1997年」の「第1章:官僚たちの困った精神構造」の「集団の調和」が一番大事にされる」の小節は、ニューヨークタイムズ紙記者が著者に投げかけた疑問に答えるかたちで述べた日本の官僚行政の問題点について纏めたもので参考になる。印象に残った部分の概要を自分なりに補足して纏めると以下のようになる。
1.組織体の調和のほうが事実より重要だという考え方は、高速増殖炉「もんじゅ」の事故の際にも見られた。あの事故はアメリカ人の目から見ると、原子力発電の根元を問うような問題だった。本来なら納税者である国民に、事実を包み隠さず報告するべきだが、当時の科学技術庁は、できるだけ事故の内容は軽いものに見せようとした。これも組織体の調和のほうが事実を国民に知らせることより優先させたもうひとつの事例である。
2.行政の判断について外部から疑いの視線は入れさせないのが官僚の論理である。判断に間違いがあったとしても、その処理方法は外部には情報を絶対にもらさず、内部だけで問題を解決するのである。文書を隠すことも常套手段となる。
3.1995年の夏にニューヨークの大和銀行で、行員が巨額損失を与えたことが発覚した事件の処理についてもウソが目についた。当時の大蔵省はアメリカ当局にすぐ知らせなければならないことを知っていながら、通報を遅らせた。大和銀行首脳と大蔵省首脳が意識的に問題を公にするのを避けた。この対応は日本の官僚側の論理からすると、おかしな対応ではない。ここにも事実より組織体の調和が優先されている部分が見える。アメリカは価値観が異なるから、アメリカ側からの批判の合唱となった。組織体の調和が事実に優先されるという目で日本という国を見ると、まったく異なった日本像が見えてくる。
4.組織体の利益が個人の利益に優先するという発想が幅を利かしているということは、いかに日本に個人の権利、それをアメリカでは「人権」と呼んでいますが、この考え方が希薄であるかの証拠でもある。しかも、人権の概念を日本の国民により深く浸透させるための省庁が厚生省だが、その省庁でもってこのレベルである。他の省庁に至っては何をか言わんやである。
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1.組織体の調和のほうが事実より重要だという考え方は、高速増殖炉「もんじゅ」の事故の際にも見られた。あの事故はアメリカ人の目から見ると、原子力発電の根元を問うような問題だった。本来なら納税者である国民に、事実を包み隠さず報告するべきだが、当時の科学技術庁は、できるだけ事故の内容は軽いものに見せようとした。これも組織体の調和のほうが事実を国民に知らせることより優先させたもうひとつの事例である。
2.行政の判断について外部から疑いの視線は入れさせないのが官僚の論理である。判断に間違いがあったとしても、その処理方法は外部には情報を絶対にもらさず、内部だけで問題を解決するのである。文書を隠すことも常套手段となる。
3.1995年の夏にニューヨークの大和銀行で、行員が巨額損失を与えたことが発覚した事件の処理についてもウソが目についた。当時の大蔵省はアメリカ当局にすぐ知らせなければならないことを知っていながら、通報を遅らせた。大和銀行首脳と大蔵省首脳が意識的に問題を公にするのを避けた。この対応は日本の官僚側の論理からすると、おかしな対応ではない。ここにも事実より組織体の調和が優先されている部分が見える。アメリカは価値観が異なるから、アメリカ側からの批判の合唱となった。組織体の調和が事実に優先されるという目で日本という国を見ると、まったく異なった日本像が見えてくる。
4.組織体の利益が個人の利益に優先するという発想が幅を利かしているということは、いかに日本に個人の権利、それをアメリカでは「人権」と呼んでいますが、この考え方が希薄であるかの証拠でもある。しかも、人権の概念を日本の国民により深く浸透させるための省庁が厚生省だが、その省庁でもってこのレベルである。他の省庁に至っては何をか言わんやである。
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アメリカのベトナム介入も共産主義への恐怖感のためだった
「池上彰著:そうだったのか!現代史、集英社、2010年第16刷」の第10章アジアの泥沼・ベトナム戦争」は参考になる。大新聞、テレビなど大手メディアの報道で植えつけら偏見には注意が必要である。印象に残った部分の概要を自分なりに補足して纏めると以下のようになる。
1.インドシナ戦争は、1954年7月、スイスのジュネーブで開かれた和平会談の結果、休戦になり、ジュネーブ協定が結ばれた。この協定で、ベトナムというひとつの国家を、北緯17度線を境に南北に分けた。南北の境には、幅10キロの非武装地帯を作った。朝鮮半島が北緯38度線で分割されたように、ベトナムは北緯17度線で、2つに分割された。
2.北には、すでに独立を宣言していたヘトナム民主共和国が確立し、ホー・チ・ミン首相のもと、社会主義の道を進めた。南側には、1955年10月、ベトナム共和国が成立し、総選挙の結果、アメリカが支援するゴ・ジン・ジェム大統領の政権が成立した。ジュネーブ協定では、非武装地帯は国境ではなく、協定成立の2年後に、南北ベトナム全体で統一選挙を実施して統一国家を作ることになっていたが、アメリカと南ベトナム(ベトナム共和国)は、これを拒否した。南北ベトナムの分断が固定化された。
3.ジュネーブ協定ができると、フランスはベトナムから引き揚げた。フランスには、遠いアジアの小国を維持する力も意思も残っていなかった。代わってアメリカが、南ベトナムを支援した。アメリカは、東西冷戦が激化する中で、アジアに親米的な政権ができ、アメリカの影響力が維持されることを望んだ。アメリカ対ソ連の勢力争いとなり、そのためにアメリカは、経済援助、軍事援助を惜しまなかった。
4.当時のマクナマラ国防長官は、共産主義に包囲されるという危機感を表現して、共産主義は、いぜん前進を続けてい。毛沢東(中国共産党主席)と部下たちは1949年以降中国を支配下におき、北朝鮮と肩を組んで西側と戦っている。ニキータ・フルシチョフ(ソ連共産党第一書記、首相)は、第3世界での民族解放戦争によって共産主義が勝利すると予測していた。
5.ソ連が1957年に人工衛星を打ち上げ、宇宙工学でのリードを見せつけた。翌1958年、西ベルリンに強圧を加えてきた。西半球ではカストロがキューバを共産主義国家を確立し、アメリカを包囲した。アメリカのベトナム介入の底流にはこのような恐怖感があった。
そうだったのか! 現代史 (そうだったのか! シリーズ) (集英社文庫)
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そうだったのか! 現代史パート2 (そうだったのか! シリーズ) (集英社文庫)
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1.インドシナ戦争は、1954年7月、スイスのジュネーブで開かれた和平会談の結果、休戦になり、ジュネーブ協定が結ばれた。この協定で、ベトナムというひとつの国家を、北緯17度線を境に南北に分けた。南北の境には、幅10キロの非武装地帯を作った。朝鮮半島が北緯38度線で分割されたように、ベトナムは北緯17度線で、2つに分割された。
2.北には、すでに独立を宣言していたヘトナム民主共和国が確立し、ホー・チ・ミン首相のもと、社会主義の道を進めた。南側には、1955年10月、ベトナム共和国が成立し、総選挙の結果、アメリカが支援するゴ・ジン・ジェム大統領の政権が成立した。ジュネーブ協定では、非武装地帯は国境ではなく、協定成立の2年後に、南北ベトナム全体で統一選挙を実施して統一国家を作ることになっていたが、アメリカと南ベトナム(ベトナム共和国)は、これを拒否した。南北ベトナムの分断が固定化された。
3.ジュネーブ協定ができると、フランスはベトナムから引き揚げた。フランスには、遠いアジアの小国を維持する力も意思も残っていなかった。代わってアメリカが、南ベトナムを支援した。アメリカは、東西冷戦が激化する中で、アジアに親米的な政権ができ、アメリカの影響力が維持されることを望んだ。アメリカ対ソ連の勢力争いとなり、そのためにアメリカは、経済援助、軍事援助を惜しまなかった。
4.当時のマクナマラ国防長官は、共産主義に包囲されるという危機感を表現して、共産主義は、いぜん前進を続けてい。毛沢東(中国共産党主席)と部下たちは1949年以降中国を支配下におき、北朝鮮と肩を組んで西側と戦っている。ニキータ・フルシチョフ(ソ連共産党第一書記、首相)は、第3世界での民族解放戦争によって共産主義が勝利すると予測していた。
5.ソ連が1957年に人工衛星を打ち上げ、宇宙工学でのリードを見せつけた。翌1958年、西ベルリンに強圧を加えてきた。西半球ではカストロがキューバを共産主義国家を確立し、アメリカを包囲した。アメリカのベトナム介入の底流にはこのような恐怖感があった。
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霞ヶ関官僚の世界は裸の王様の世界でもある
宮本政於著:お役所の精神分析:講談社、1997年」の「第1章:官僚たちの困った精神構造」の「集団の調和」が一番大事にされる」の小節は、薬害エイズ問題を例に、ニューヨークタイムズ紙記者が著者に投げかけた疑問に答えるかたちで著者が述べた日本の官僚行政の問題点について纏めたものである。福島原発事故における資源エネルギー庁長、原子力安全・保安員と東京電力の関係と類似しており参考になる。印象に残った部分の概要を自分なりに補足して纏めると以下のようになる。
1.厚生省における医系技官とキャリアの事務官との争いは激しい。キャリアのグループは医系をたたけば自分たちのポストが増えるだろうと考えて、エイズ問題では当時の菅大臣の指示に従った。ところが医系のグループをたたいたまではよかったが、火の粉は事務系にまで飛んできた。
2.郡司元課長、安部教授をたたけばたたくほど、「どうして厚生省は危険を知っていて非加熱製剤に対して輸入禁止措置をとらなかったのか」、「非加熱製剤によるエイズウイルスの感染の危険性が認識されて、その結果、加熱製剤が認可されても、なぜミドリ十字は非加熱製剤の出荷を1988年までやめなかったのか」という疑問は深まった。そして薬務局長の影響が語られるようになった。薬務局長はキャリアの事務官で、過去の彼の上司はミドリ十字の元社長である。そして彼の元上司というのはやはり厚生省の薬務局長を務めた人物だった。
3.天下り、年功序列が重視される官僚だから、元薬務局長が、当時の薬務局長に影響力を行使してもおかしくない。官僚たちが、非加熱製剤の輸入禁止という措置をとらないことが大きな問題であった。
4.お役所の世界は裸の王様の世界でもある。今回の薬害エイズ問題で、マスコミや国民が、これだけ騒ぐとは考えていなかった。1983年当時に大騒動になることがわかっていれば、ミドリ十字は早々と非加熱製剤を廃棄処分にしていたはずである。経済的なロスより今回の事件によるロスのほうがはるかに大きいことを官僚たちは、だれも思っていなかった。危機意識に欠けた官僚感覚で、しかも派閥争いしか考えなければ、外の世界に目が行き届かなくなる。信じられない近視眼的な人たちの集団である。
5.ニューヨークとシカゴのマフィアの派閥争いは有名だが、官僚も同様に次元が低い。医系技官をたたくことが自分たちの首を絞めることに気づいた事務系キャリアは、これ以上火の粉が飛ばないように火消しに走った。厚生省は医療に関しては一種の統制経済を敷いていて、医療関連企業を完全に手中におさめている。
6.エイズ問題のように、明らか人命軽視の対応が見えてしまい、その責任が当時の厚生省の上層部にまで及べば、非難の声が今より大きくなることは間違いない。そうなれば規制緩和の矢面に立たされ、厚生省が敷いている統制経済は崩れさる。権限は減少し、しかも民営化の声も出る。組織体としての機能が大幅に変化することになる。厚生省自体が崩壊しかねない。派閥争いの次元を越えてしまう。このような事態だけは極力避けたいので事務系と医系技宮との合意ができ上がった。
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1.厚生省における医系技官とキャリアの事務官との争いは激しい。キャリアのグループは医系をたたけば自分たちのポストが増えるだろうと考えて、エイズ問題では当時の菅大臣の指示に従った。ところが医系のグループをたたいたまではよかったが、火の粉は事務系にまで飛んできた。
2.郡司元課長、安部教授をたたけばたたくほど、「どうして厚生省は危険を知っていて非加熱製剤に対して輸入禁止措置をとらなかったのか」、「非加熱製剤によるエイズウイルスの感染の危険性が認識されて、その結果、加熱製剤が認可されても、なぜミドリ十字は非加熱製剤の出荷を1988年までやめなかったのか」という疑問は深まった。そして薬務局長の影響が語られるようになった。薬務局長はキャリアの事務官で、過去の彼の上司はミドリ十字の元社長である。そして彼の元上司というのはやはり厚生省の薬務局長を務めた人物だった。
3.天下り、年功序列が重視される官僚だから、元薬務局長が、当時の薬務局長に影響力を行使してもおかしくない。官僚たちが、非加熱製剤の輸入禁止という措置をとらないことが大きな問題であった。
4.お役所の世界は裸の王様の世界でもある。今回の薬害エイズ問題で、マスコミや国民が、これだけ騒ぐとは考えていなかった。1983年当時に大騒動になることがわかっていれば、ミドリ十字は早々と非加熱製剤を廃棄処分にしていたはずである。経済的なロスより今回の事件によるロスのほうがはるかに大きいことを官僚たちは、だれも思っていなかった。危機意識に欠けた官僚感覚で、しかも派閥争いしか考えなければ、外の世界に目が行き届かなくなる。信じられない近視眼的な人たちの集団である。
5.ニューヨークとシカゴのマフィアの派閥争いは有名だが、官僚も同様に次元が低い。医系技官をたたくことが自分たちの首を絞めることに気づいた事務系キャリアは、これ以上火の粉が飛ばないように火消しに走った。厚生省は医療に関しては一種の統制経済を敷いていて、医療関連企業を完全に手中におさめている。
6.エイズ問題のように、明らか人命軽視の対応が見えてしまい、その責任が当時の厚生省の上層部にまで及べば、非難の声が今より大きくなることは間違いない。そうなれば規制緩和の矢面に立たされ、厚生省が敷いている統制経済は崩れさる。権限は減少し、しかも民営化の声も出る。組織体としての機能が大幅に変化することになる。厚生省自体が崩壊しかねない。派閥争いの次元を越えてしまう。このような事態だけは極力避けたいので事務系と医系技宮との合意ができ上がった。
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