2015年01月
アメリカは日朝交渉をつぶそうとしている。北朝鮮に送金できるようになると、その金でアメリカに到達する弾道ミサイルを開発する。
「池上彰、佐藤優著:新・戦争論、僕らのインテリジェンスの磨き方、文藝春秋、2014年」は面白い。「第5章:日本人が気づかない朝鮮問題」は参考になる。印象に残った部分の概要を自分なりに補足して纏めると以下のようになる。
1.北朝鮮との問で拉致問題が懸案になっていが、アメリカは日朝交渉をつぶそうとしている。北朝鮮に送金できるようになると、その金でアメリカに到達する弾道ミサイルをもつことが、アメリカから安全保障をとりつけるための唯一の方策というのが、の金正恩政権の発想である。日本から送金があれば、ミサイル技術を開発できると考えている。
2.事前に期待値を上げて、日本の世論が満足しないようにアメリカ通の日本人記者が操作している。北朝鮮が再調査をすると言っているが、再調査する必要はなく、全部データがある。日本側は妥協している。「再調査したら見つかりました、以前悪いやつが隠していたのが見つかりまし」という弁解の逃げ道を与えている。
3.一方に拉致問題があり、他方に大量破壊兵器問題がある。国際社会、とくにアメリカと、日本では、この2
つの比重が逆である。これが北朝鮮問題の一番のネックである。安倍政権は、落語の「手遅れ医者」と同じで、始めに手遅れと言っておけば、うまく治ったときは名医ということになる。
4.日朝関係をいざ進めようというときに、北朝鮮はわざわざこれ見よがしにミサイル発射実験をやっている。挑発的というか、日本がどうせ反対しないだろうと瀬踏みしている。普通、ミサ
イルを撃っている最中に制裁解除なんてしない。
5.金正日から金正恩への権力委譲について準備の期間がなかったため、金正恩はいろいろ無
理を重ねている。金正恩の叔父でもある張成沢国防委員会副委員長が処刑されたのも、その無理の現われである。
6.かつては金正日が「損害賠償を要求する」と言っていたのが、小泉総理との日朝交渉直前に譲歩した。損害賠償金ではなく、韓国と同じ条件でいい、となった。ただし北朝鮮としては、「当然の償い金を取った」と主張する。外交の世界では、国内的な説明についてはお互いに問わないという原則がある。
7.1965年の日韓基本条約は極めて異例な条約で、正式な文書は、英語版が主で、日本語版と韓国語版が別々にあって、お互いに相手がどう訳していようと関知しない。何かもめたら英語の正文でチェックする。だから向うは「損害賠償を獲得」と言うし、こっちは「独立のお祝い金をあげた」という。
8.北朝鮮にいる「日本人」が大量に帰還するということになったら、日本政府も苦しい対応を迫られる。「大量の日本人の帰還」というのが、今後の北朝鮮の重要なカードになる。労働人口としてはもう盛りを過ぎている人たちが多い。その分の社会保障費が不要になる。
9.中国が経済力においても軍事力においても強くなる一方、アメリカの力は弱くなっている。北朝鮮の核開発も、結局、アメリカには止められなかった。韓国の安全保障は、アメリカではなく中国に頼んだ方がいいと思っている。
インド総選挙で右派の最大野党・インド人民党(BJP)が圧勝し、政権交代が実現した。「モディノミクス」と呼ばれる経済政策への期待は大きい。
「プラチ・プリヤ(エコノミスト)著:モディノミクスを拒む政治の壁、経済政策・モディ新首相の手腕に期待がかかるが、州政府と協力できなければ改革は不発に終わる」(Newsweek June 17,2014)は参考になる。
1.インド総選挙で右派の最大野党・インド人民党(BJP)が圧勝し、政権交代が実現したのは、同党を率いるナレンドラ・モディに有権者が高い期待を寄せているからである。特に、「モディノミクス」と呼ばれる経済政策への期待は大きい。モディが州首相を務めた西部のグジャラート州は、高い経済成長率を記録してきた。BJPは、モディノミクスこそ、苦しむインド経済に息を吹き返させられる魔法の杖だと印象付けることに成功している。
2.政権交代が決まると、産業界はさっそく、「財界寄り」とされる新首相に要望を突き付け始めた。彼らは手始めに、間接税改革、補助金支出の抑制、金融緩和、停滞している公共事業の推進などを求めている。しかし、モディがグジャラート州時代の経済運営をそのまま国政で再現できると考えるべきではない。中央政府レベルと州レベルでは、政治のメカニズムがまるで違う。新しい首相が魔法のように経済を再生させられると期待すれば、深い失望を味わうことになる。
3.大方のエコノミストは、インド経済の復活には投資家の信頼を取り戻すことが不可欠だとする。そのためにまず、政府のインフラ投資の拡大と、貯蓄率を高めるための税制変更が行われるかもしれない。ほかにも、新政権に期待されていることは多い。国営企業の民営化、国営銀行の資本増強、間接税改革、農業改革、予算総額90億ドルの「デリー・ムンバイ間産業大動脈構想(DMIC)」の推進、保険・年金分野の外資への開放、製造業振興策のテコ入れなどである。
4.新政権が早い段階で妊印象を与えることに成功すれば、多くの外国資本を呼び込める可能性はある。そのためには、経済だけでなく、「政治」がカギを握る。BJPは、国民会議派主導の政権が続いた10年間を「失われた10年」と呼んできた。しかしモディは、高名な経済学者のマンモハン・シン前首相にできなかったことを成し遂げられるのか。モディの政策は盛りだくさんだが、それをどうやって実行に移すのかははっきりしない。
5.インドの政府権限は、中央政府の管轄事項、州政府の管轄事項、両者が共同で担う事項という3つのカテゴリーに分かれている。土地の権利、公衆衛生、農業、水利、道路、地方行政などは、州政府の管轄。人口抑制、教育、小規模な港湾、電気、一部の基礎的農産物の流通・供給などは、中央政府と州が共同で担うべき事項とされている。
6.こうした政治システムの下で、中央政府の首相が手腕を振るうのは簡単でない。州首相時代のモディはこのシステムの恩恵にあずかっていたが、国の首相となった今は、逆にそれが足かせになりかねない。これまでもたびたび、州政府は中央政府の政策を阻んできた。前政権下では州の抵抗により、インフラプロジェクトの9割が停止してしまった。小売業改革、農業改革、遺伝子組み換え作物の商業化、間接税改革など、多くの政策がストップしている。
7.多くの州政府は、モディに好意的とはとても言えない。新政権はそうした各州政府の協力を得て、これらの政策を推し進めていけるのだろうか。今回のインド総選挙は史上最高となる66・4%の投票率を記録し、30年ぶりに単独政党が絶対過半数の議席を獲得した。しかしその半面、与党となったBJPの得票率は31%にすぎない。一方で、BJPでも国民会議派でもない小政党の得票率が49%に達した。モディは政権運営の安定に向け、さまざまな地域政党に協力と参加を呼び掛けていく必要がある。
8.BJPが選挙で圧勝したことで政治がスピードアップする可能性はあるが、これまで連立政権の中で機能していた「抑制と均衡」が失われる面もある。新政権は政策推進のアクセルとプレーキのバランスを取り、各州の意向を尊重しながら、経済発展を目指すべきである。
中東情勢が複雑化した原因は、英国の三枚舌にある。オスマン帝国の弱体化を狙った英国は、東アラブ地方にアラブ人の独立国を作ると約束した。
「池上彰著:学校では教えない「社会人のための現代史」池上彰教授の東工大講義、文藝春秋、2013年」がためになる。「Lecture5.日本にも飛び火? イスラエルやシリアの紛争」の印象に残った部分の概要を自分なりに補足して纏めると以下のようになる。
1.中東は石油や天然ガスが大量に出るところだけに、ここで緊張状態が高まると、石油や天然ガスの値段が高騰し、私たちの暮らしに直接影響が出る。イスラエル建国のきっかけは、第2次世界大戦中の欧州でのユダヤ人虐殺だった。ナチス・ドイツは、ドイツ国内はもとより、ドイツが占領したオランダやポーランドで「民族浄化」の名のもとに多数のユダヤ人を虐殺し、その数は600万人にも上った。
2.戦後、ユダヤ人たちは、こんな目にあったのは、自分たちの国家を持たないからだと考え、以前からあったシオニズム運動(シオンの丘に帰ろうという運動。ユダヤ教の神殿があった場所がシオンの丘)を活発化させた。パレスチナ地方のエルサレムに自分たちの国家を建設しようという運動である。これを欧米諸国が支援した。ユダヤ人の悲惨な運命に同情したからである。
3.1947年11月、国連で「パレスチナ分割」が決議された。パレスチナの56%の地域に「ユダヤ国家」を、43%の地域に「アラブ国家」の建設を認めるというものである。ユダヤ教徒とイスラム教徒の双方にとっての聖地であるエルサレムは「国際管理地区」に指定した。この決議にもとづき、1948年5月14目、イスラエルが建国された。「イスラエル」とは、ヘブライ語で「神の戦士」で、古代にも存在していた国家の名前を復活させた。
4.周辺のアラブ国家は、これを認めまなかった。イスラエル建国の直後、アラブ連合軍(エジプト、シリア、ヨルダン、レバノン、イラク)がイスラエルを攻撃し、中東戦争が始まった。その後も戦争が相次ぎ、大きなものだけでも4回の戦争が起きたため、最初のこの戦争は第1次中東戦争と呼ばれた。イスラエルにとっては「独立戦争」だった。
5.中東情勢が複雑化した原因は、英国の「三枚舌」にある。第1次世界大戦前まで、パレスチナを含むアラブ地方はオスマン帝国の領土だった。第1次大戦が始まると、オスマン帝国はドイツと結び、英国、フランスと敵対した。オスマン帝国の弱体化を狙った英国は、帝国支配下のアラブ人を味方につけようと工作し、イスラム教の聖地メッカを守っていたアラブ人の有力者フセインに対し、自分たちに協力してオスマン帝国と戦えば、戦後、東アラブ地方に「アラブ人の独立国」を作ることを認めると約束した。これが「マクマホン書簡」である。マクマホンはこの交渉の英国側代表者の名前である。
6.英国の約束を信じたフセインは1916年、アラブの反乱を起こした。その一方、この地に英国寄りの国家ができれば好都合だと考えた英国のバルフォア外相は、英国のシオニズム運動家グループの代表に書簡を送り、「パレスチナにユダヤ人のナショナル・ホームを設立することを支持する」と伝えた。「ナショナル・ホーム」とは曖昧な言葉だが、ユダヤ人の独立国家建設が認められたと考えたユダヤ人たちは、続々とパレスチナに入植を始めた。
7.英国は、さらにフランスとの間で、オスマン帝国に勝った後の処理について秘密協定を結んでいた。この地域を両国で山分けにしようという秘密協定である。これは両国の交渉担当者の名前から「サイクス・ピコ協定」と呼ぼれ、条約が結ぼれたこと自体、秘密にされた。
8.アラブ人とユダヤ人に、それぞれ独立国家を約束する一方、ひそかにフランスと山分けの約束をする。これが英国の三枚舌と言われるゆえんである。第1次大戦後、戦争に敗れたオスマン帝国の領土は、英国とフランスで分割された。英国との約束を信じてアラブ人の独立国家を建設する試みはフランスによって弾圧された。
9.これを見た英国は、妥協策として、ヨルダン川東岸に「トランス・ヨルダン」とい
うアラブ国家の設立を認めた。これがいまのヨルダンである。ヨルダン川の西側(パレスチナ地方)は、英国が引き続き支配した。しかし、第2次世界大戦が終わると、英国は、もはやパレスチナを維持する力を失っていた。パレスチナから撤退し、後処理は国連に委ねた。
10.こうした行動が、中東に紛争の種を蒔いた。第1次中東戦争は、イスラエルの勝利に終わり、イスラエルは、建国後に周辺のアラブ国家と戦争になる可能性を考え、周到に軍備を充実させていた。この戦争で、イスラエルは、国連決議が認めた以上の土地を占領した。その面積はパレスチナ全体の77%に上った。国連決議にもとついて建国されたイスラエルだったのに、国連決議に反して広い範囲を支配した。
イスラエルは、ヨルダンが支配していた東エルサレムを占領したことで、旧市街地も確保し、エルサレムを永遠の首都と宣言した。国際社会は、イスラエルのこの行動を認めていない。
「池上彰著:学校では教えない「社会人のための現代史」池上彰教授の東工大講義、文藝春秋、2013年」が面白い。「Lecture5.日本にも飛び火? イスラエルやシリアの紛争」の印象に残った部分の概要を自分なりに補足して纏めると以下のようになる。
1.パレスチナの他の地域は、ヨルダン川西岸地区をヨルダンが、ガザ地区をエジプトが占領した。国際管理都市に指定されたエルサレムは、西側をイスラエルが、聖地がある東側をヨルダンが占領した。結果、パレスチナは3分割された。その後、3回の戦争を経て、イスラエルは、ヨルダン川西岸地区もガザ地区も占領し、さらにシリア領のゴラン高原も占領した。
2.ヨルダンが支配していた東エルサレムを占領したことで、イスラエルは旧市街地も確保し、エルサレムを「分割されることのない永遠の首都」と宣言した。国際社会は、イスラエルのこの行動を国連決議に反したものと判断し、エルサレムをイスラエルの首都としては認めていない。大使館は相手の国の首都に置くものだが、日本を含め各国ともエルサレムには大使館を設置していない。各国の大使館はテルアビブにある。
3.度重なる戦争によって生まれたのが、パレスチナ難民である。イスラエルの建国によって追われた住民や、戦火から逃れた人々は、ヨルダンやレバノン、シリアに難民となって流入した。彼らは「パレスチナからの難民」という意味で「パレスチナ難民」と呼ばれた。民族としてはアラブ人だが、「パレスチナ難民」と呼ばれているうちに、彼らの中に、「自分たちはパレスチナ人だ」という意識が生まれた。
4.パレスチナ難民の援助のため、「国連パレスチナ難民救済事業機関」が設立された。「国連難民高等弁務官事務所」とは別組織である。各地に「パレスチナ難民キャンプ」が作られたが、難民生活が長引くにつれ、テント生活の「キャンプ」は、恒久的な住居に変わり、「難民キャンプ」という名の都市が生まれた。あくまで一時的な収容施設であるという建前があるので、下水道などの整備は行われず、衛生状態は決してよくない。
5.難民であるために、その国で就職することはできず、閉ざされた空間で生活する閉塞感に悩まされている。こうした難民の中から、「パレスチナの独立国家」をめざす運動が始まり、最大の組織はパレスチナ解放機構(PLO)でその指導者はヤセル・アラファトだった。PLOや、そこから飛び出した過激派組織などは、世界各地でテロ活動を展開し、世界の注目を浴びるようになり、悲惨なパレスチナ難民の状態に対する同情も高まり、パレスチナ和平への動きが出てきた。
6.和平交渉の舞台を提供したのは、北欧の国ノルウェーである。ノーペル平和賞の選考委員会があるノルウェーは、世界各地の紛争解決に努力することが多く、遠く離れた中東での紛争解決にも乗り出した。こうして1993年5年9月まとまった和平案は、交渉の舞台となったノルウェーの首都の名前をと「オスロ合意」という。
7.合意の調印式は、米国のクリントン大統領を保証人として、ホワイトハウスの中庭で行われた。イスラエルのイツハク・ラビン首相と、PLOのアラファト議長が握手を交わした。オスロ合意の中身は、イスラエルが、占領しているヨルダン川西岸地区とガザ地区から順次撤退し、パレスチナ住民による選挙で代表を選出し、自治を姶める、というものである。これにもとついて、1996年1月にパレスチナ住民による選挙が実施された。国会に
あたるパレスチナ立法評議会の議員選挙と、大統領にあたるパレスチナ自治評議会議長の選挙が同時に行われた。その結果、PLOのアラファト議長が、自治評議会議長に選出された。それまでイスラエルに対するテロ行為をしていた武装組織は、パレスチナ自治政府の警察に生まれ変わった。
8.こうして中東和平は進展するかに見えたが、イスラエルのラビン首相が、1995年11月、暗殺された。犯人は、ユダヤ教原理主義者で「ユダヤ人の土地」をパレスチナ人に譲ることは「ユダヤ人に対する裏切り」と考えての暗殺だった。ラビン亡き後のイスラエルでは、パレスチナ自治政府との和平に消極的な首相が相次いで誕生し、その後の「パレスチナ国家」建設への動きは足踏み状態である。
9.和平の進展がないことに焦燥感を募らせたパレスチナの過激派組織は、イスラエルに対するテロ活動を活発化させた。これに怒ったイスラエル政府は、パレスチナ自治区との間に「分離壁」を建設した。パレスチナ側から武装勢力やテロリストが入ってくるのを防ぐため、イスラエルとパレスチナ自治区を遮断した。コンクリート製の高い壁で、随所に監視塔が建てられました。分離壁の建設が進むにつれ、イスラエル国内での自爆テロが激減した。
10.中東和平が進展しないまま、2004年11月にはアラファト議長が死去し、後任に穏健派のマフムード・アッバス議長が誕生した。故アラファト議長ほどのカリスマ性には欠け、2006年1月に実施されたパレスチナ評議会議員選挙では、イスラム原理主義組織のハマス(イスラム抵抗運動)が過半数を得て、イスマイル・ハニヤ首相が誕生した。
11.ハマスは、イスラエルの存在を認めない方針をとってきたため、イスラエルも米国も、選挙結果を認めない。パレスチナの中でもイスラエルとの共存を認める穏健派のファタハとの間で対立が発生。ガザ地区では激しい銃撃戦の末、ファタハは追放された。それ以降、パレスチナ自治区のうち、ガザ地区はハマス、ヨルダン川西岸地区はファタハが支配するという状態になり、パレスチナが分裂してしまった。ハマスが支配するガザ地区から、イスラエルに向けてロケット弾が発射されている。
12.2012年11月には、ガザ地区のハマスの軍事指導者をイスラエル軍がミサイル攻撃で暗殺したことから、ガザ地区から大量のロケット弾がイスラエル側に撃ち込まれた。これに対してイスラエル軍も空爆で報復し、ガザ地区の住民に多数の犠牲者が出た。この戦闘については、エジプトのモルシ大統領が仲介に入り、ようやく休戦が成立した。
周永康は江沢民人脈である。江沢民は、元共産党総書記の実力者。習近平国家主席のいちばんの標的は江沢民。習近平主席は江沢民にすり寄る形でライバル李克強に勝った。
「池上彰著:知らないと恥をかく世界の大問題5、KADOKAWA、2014年」の「第5章:もの騒ぎになってきた東アジア情勢」は参考になる。印象に残った部分の概要を自分なりに補足して、纏めると以下のようになる。
1.中国は不動産ブームだったので、住むつもりはなくても投資のためにマンションを買う人が大勢いた。しかし、需要と供給が逆転し、最近は売れ残りも出るようになった。家賃収入が入らなければ、返済はできないので投資家にお金が戻らない。こうしてデフォルトの連鎖が心配されているのです。IMFによればシャドーバンキングの規模は日本円にして約460兆円と推計されている。
2.リーマン・ショックは住宅への融資が焦げついたのが原因。シャドーバンキングでは、住宅が街に置き換わっただけで、その構造は同じである。大量に売れている理財商品が、単なる紙くずになってしまったら、理財商品を買っていた投資家はもちろん、販売した投資会社も経営破綻、中国経済全体を揺るがすことになる。
3.中国だけでなく、日本への影響も無視できない。リーマン・ショックがどれくらい日本、そして世界に影響を与えたのか見ればわかる。リーマン・ショックが起きたとき、当時の経済財政担当相の与謝野馨氏は「ハチが刺した程度、日本に大した影響はない」とコメントしていた。実際は、戦後最大の経済危機に陥ってしまった。
4.日本から中国への輸出は年間約18兆円(2012年度)。主に家電や半導体、プラスチックなどを輸出している。リーマン・ショックの翌年、アメリカへの輸出は3割減少した。もし中国に対しても同じことが起これば、減収は約5兆円規模になる。中国政府はなんとか抑えようとしているが、ようやく立ち直りかけた世界経済は、またもや新たな懸念に直面している。
5.中国国内では、政界にも激震が走っている。周永康事件である。現在の中国は、7人の政治局常務委員が約14億人を動かしているが、胡錦濤国家主席の時代は9人の政治局常務委員が中国を動かしていた。そのトップ9人のひとりだった周永康という人物が引退後、汚職捜査の対象になっている。中国では、常務委員まで務めた人は、どんな疑惑があっても摘発しないという不文律がある。今回は、そのタブーを破るものである。
6.習近平国家主席は、腐敗撲滅をうたうことで国民の支持を得ようとしている。周永康は大慶油田の実習員からキャリアをスタートさせ、国有企業「中国石油」の社長に上り詰め、"石油王"と呼ばれた。国土資源相、公安相などを歴任。2007〜2012年に政治局常務委.員(序列第9位)を務めた。
7.中国石油は中国ナンバー2の石油会社である。その社長ですから、海外と取引をするうえで設備の購入なども行う。その際、多額のリベートを息子が受.け取っていたという容疑がかけられている。息子は拘束され、石油企業幹部らが次々摘発されている。香港メディアによると、汚職の総額は約1兆7000億円と推計される。あまりに巨額だったので、汚職捜査となった。
8.中国では共産党員には警察が手を出せない。共産党員の汚職を調べるのは共産党規律委員会である。地方の共産党にも規律委員会があるが、全国レベルでは「中央規律委員会」があり、ここが共産党員を捜査する。いろいろな処罰があるが、共産党のいちばん重い処分は「除名」である。共産党を除名された途端、共産党員ではなくなるので警察が逮捕、検察が起訴できる。中央規律委員会が調べたデータが警察に送られ、裁判の証拠になる。
9.中国共産党の元幹部で、収賄や横領の罪に問われている薄煕来も、共産党でいちばん重い罪の除名処分となった。現在、執行猶予つきの死刑判決を受け刑務所に入っている。、「執行猶予つきの死刑判決」というのは、大物に関してよく言い渡される刑である。一般人であれば、死刑判決が出てすぐに処刑されるが、共産党の幹部だった人物に関しては、執行猶予がついたということは、すぐには処刑しないで、ほとぼりが冷めたころ、減刑されて釈放されることが多い。
10.今回の汚職摘発が、「権力闘争」の色合いを濃厚にしている。周永康は江沢民人脈であ。江沢民は、元共産党総書記の実力者である。習近平国家主席のいちばんの標的は、江沢民ともいわれている。習近平主席は江沢民にすり寄る形でライバル李克強に勝ち、自分が国家主席に、李克強は首相になった。
11.前国家主席の胡錦濤は、江沢民の影響力が強く、自分のやりたいことをやれなかった。習近平は江沢民のおかげで国家主席になったが、完全に影響力を断ち切りたい。自分に権力を集中させるため、本来は李克強首相が担当する経済関係の仕事も全て自分が取り上げている。
12.その一方で、建国の父・毛沢東を再評価し、「やっぱり毛沢東は偉大だった」と、格差が広がり不満を持つ国民をなだめている。毛沢東を再評価し、自分も毛沢東並みの権力集中を図っている。中国では68歳が定年。現在、7人の常務委員のうち、4年後、定年に引っかからないのは習近平主席と李克強首相のみである。前国家主席の胡錦濤は、自分の影響力を残そうとして、自分の出身派閥である中国共産主義青年団系の共産党員を、政治局の下の中央委員レベルに大勢配置している。習近平主席にしてみれば、圧倒的な力を持って4年後に自分の言うことを聞く人間だけにすれば、次の5年間はやりたい放題である。です。そのための権力闘争が始まっている。