2015年10月
首相の東条以下7人は絞首刑となり、東条内閣の閣僚たちもほとんど終身刑など有罪となった中で、岸だけが不起訴、釈放となった理由は、アメリカと岸の間の密約というのが定説である。
「田原総一朗著:私が伝えたい日本現代史1934-1960、ポプラ社、2014年」は参考になる。「第7章:昭和の妖怪と言われた岸信介のねらい」「満州国を取りしきり、昭和の妖怪となる」の印象に残った部分の概要を自分なりに補足して纏めると以下のようになる。
1.1936年の2・26事件が起きた年の10月、岸は満州に赴任した。満州国国務院実業部総務司長という肩書きである。このころ、満州国実務部のトップは満州の人物だったが、実質的には全部、岸が切り盛りしていた。
2.岸は満州在任時に、実業家の鮎川義介を満州国に招き、国内の財閥に抵抗して新しい財閥・日産をつくった。さらに、関東軍と提携してやりたい放題をした。岸信介は満州で独特の膨大な金脈をつくり、アヘンとの関係も噂されていた。岸は「昭和の妖怪」と称されるようになった。
3.太平洋戦争直前、東条英機内閣が誕生すると、岸は商工大臣となった。東条は関東軍参謀長であった満州時代に、岸と深くかかわっていた。商工大臣に就任すると、岸は商工省の先輩にあたる職員を全員辞めさせた。そして自分の側近で幹部を固めた。岸が商工大臣に就任したのは44歳のときだから、45歳以上の幹部を全部首にした。
4.1944年にサイパンの日本守備隊約3万人が玉砕した。サイパンが米軍の手に渡ると、日本本土は完全にB29の攻撃射程内に入る。岸は「サイパンを失っては戦争継続は不可能だ」と東条に強く主張した。東条は「お前みたいな文官に何がわかるか」と一蹴したが、岸はしつこく早期終戦を迫った。
5.東条は、岸を辞めさせ内閣改造をはかろうとしたが、岸は断固として辞任拒否を通し、閣内不一致で、なんと東条内閣自体が総辞職に追い込まれた。これは岸の単独行動ではなく、「東条打倒」の動きは近衛文磨・木戸幸一を始め、重臣・財界の中でも広がっていて、岸の行動はこうした動きと連動していた。
6.岸は東条内閣をつぶした後、憲兵隊につけ回され、身の危険にさらされた。1945年の敗戦後、9月15日に戦犯容疑者として占領軍に逮捕された。1948年、児玉誉十夫、笹川良一など19人のA級戦犯容疑者とともに釈放された。岸は巣鴨から米軍のジープで真っ直ぐに、永田町の官房長官の公邸に向かった。そこには、吉田内閣の官房長官を務める実弟の佐藤栄作がいた。この年、昭和電工事件で芦田内閣が総辞職して吉田茂が首相に返り咲き、そのとき運輸事務次官を退任した佐藤を、いきなり官房長官に起用した。
7.首相の東条以下7人は絞首刑となり、東条内閣の閣僚たちもほとんど終身刑を含む有罪となった中で、岸だけが「不起訴、釈放」となった理由は、「アメリカと岸の問に密約あり」という定説と繋がる。
8.東西対立が顕著になり、アメリカの上院で「冷戦」という言葉が使われて、対日政策の転換がはっきりとしてきた。占領が終わっても日本をアメリカの支配下に置き、軍事的にもアメリカが意のままに使える国としたい。それができる人物としてアメリカは岸に目をつけ、その約束で起訴をせずに釈放した。
9.岸は極東国際軍事裁判をまったく認めず、アメリカの占領下に作られた憲法は当然改正すべ
きだと言っていた。吉田首相についても「所詮占領下の政治家」で、「独立日本のリーダー」と
しては認めていなかった。
10.A級戦犯容疑者の岸が社会党に入党をはかったというのは、違和感があるが、河上丈太郎、浅沼稲次郎ら少なからぬ社会党の政治家が、近衛文磨の新体制運動に参加していて、岸の国家社会主義とは重なる部分が少なくなかった。岸は、社会党に入って党を改革し、自由党に対抗して政権を取り戻せる政党にしようとしたが、社会党が岸の入党を拒んだ。
11.岸信介が初当選したのは、1953年、吉田が国会質問で「バカヤロー」と言って解散に追い込まれたときの総選挙である。岸は、佐藤、右派社会党の受田新吉についで、第3位で当選した。選挙が終わって第五次吉田内閣が発足したが、造船疑獄が起こり、「新党結成促進協議会」がつくられ、三木武吉、石橋湛山、河野一郎、岸信介が中核で、岸は協議会の事務局長となった。
12.何人もの政治家が、「尋常ならぬ資金の潤沢さ」を岸の強さの要因のひとつとして指摘している。岸には生涯「金の疑惑」がつきまとったが、「(金は)濾過器を通せ」と言って、最後まで切り抜けた。
13.岸マジックなどとも呼ばれ、日本がアジアの各国に支払った戦争賠償金をめぐる動きである。インドネシアではその賠償金を担保にして、ダムや橋を作り、ホテルやデパートなど、戦争の賠償とは関係のないものまで作られる。そこで、ホテルの部屋数より多い数のベッドが購入され、その資金は、岸やインドネシアの関係者で山分けされている。
14.釈放から8年で、岸は総理大臣になった。朝日新聞アメリカ総局長、論説主幹などを務めた松山幸雄は、岸首相の誕生を、「民主主義の筋論からいって、岸が首相になるのはおかしい。僕はあそこで日本が変わってしまったと思う。許せないできごとだ」と強調した。「自由主義者で軍部ににらまれながら戦争に反対しつづけて来た石橋湛山のほうが適任だと思った」と中曽根元首相は語っている。
15.岸は自分自身を懸命に、アメリカに売り込んでいた。首相に就任して2カ月後の1957年岸はマッカーサー駐日大使と1時間半も話し込んでいる。訪米のために日本を発つまでに、岸は7回もマッカーサー大使と長時間会談している。日本のマスメディアは、岸のマッカーサー大使訪問も、さらに訪米さえも単なる儀礼的なものととらえて、日本のあり方が変わる可能性がある、などと報じた新聞は一紙もない。
16.岸は「自衛隊を増強し、大きな責務を負う」という、アメリカの期待に応える体制づくりをする確約をしている。
中国は「虚弱な国家」であり、習政権は安定した政権ではない、という、ブルッキングス研究所の分析だった。次の権力闘争に勝つまで足元は危うい。
「中国軍部が汚職摘発で大揺れ将軍「連続自殺」事件の深層:選択、2014.12」は面白い。印象に残った部分の概要を自分なりに補足して纏めると以下のようになる。
1.北京で先月開かれたアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会談は、習近平にとって中国の国家主席が米国大統領と並ぶ世界の二大指導者となったと内外に宣言するイベントだった。オバマ米大統領、プーチン露大統領ら各国首脳が清朝時代の衣装をアレンジした中国服を着てホスト役の習近平国家主席に握手を求めた。これを中国国営メディアは「万邦来朝」と表現した。周辺の属国の王がこぞって朝貢するという中華帝国のイメージだ。これが、習近平政権の掲げた「中華民族の偉大な復興」だ。
2.APEC首脳会議が終わるとすぐ、それまでの高揚が雲散霧消する事件が起きた。海軍司令部ビルの15階から海軍副政治委員の馬発祥中将が飛び降り目殺した。副政治委員は、海軍の共産党組織のトップである政治委員に次ぐ高官である。軍内の粛清は、党中央紀律検査委員会がこの6月、党中央軍事委員会前副主席の徐才厚上将(当時)を汚職で立件して一段落したと思われていたが、そうではなかった。軍の粛清再開は、いまだ軍を掌握できない習近平の焦りとみられる。軍を掌握できない皇帝は裸の皇帝にすぎない。
3.現在の海軍政治委員は、共産主義青年団(共青団)派の始祖、胡耀邦元総書記の娘婿だが、新兵器開発部門出身の馬中将は、従来の主流派である徐才厚派だ。書道の達人で、同じく書道が趣味の徐才厚と軍人書道同好会を作っていた。馬中将事件の数日後、吉林省軍区の現職副政治委員の少将が首をつった。吉林省軍区は徐才厚が基盤としていた東北軍の支配下にある。実は、海軍ではこの2カ月前にも、東海艦隊の基地がある浙江省舟山市のホテルで南海艦隊の装備部長が飛び降り自殺している。装備部長は兵器納入を担当する利権ポスト。徐才厚事件の捜査はまだ終わっていない、という動揺が軍の中に広がっていた。
4.中国の汚職捜査では、金庫番の副職を摘発し、党最高指導部の許可が出ると上部の「巨悪」逮捕へ進み、不許可の場合は副職で止めるのが定石である。習近平、王岐山は東北、西北という軍主流の二大軍閥と険悪な関係にある。習近平政権の人民解放軍は、総参謀長、総政治部主任とも、これまで主流派から外れていた広東軍の出身である。江沢民時代に、江沢民を牽制していた中央軍事委秘書長だった楊白泳を軍から追放し、この功績によって徐才厚以前から東北軍は江沢民の地元の南京軍区とともに江沢民政権の主流を占めた。今後、徐才厚派の残党摘発が始まるとすれば、習近平が闘う本当の相手は江沢民ということになる。
5.習近平は、APECでオバマ大統領と会談する直前に、わざわざ北京から遠く離れた山奥に来て「党の軍に対する優越」を確認するよう迫った。米中の軍事対立を回避する合意の直前になって、軍が習近平の党中央に反対していたと考えられる。福建省は習近平だけでなく副主席の許其亮のかつての勤務地である。
6.これから始まる反対派の摘発は徐才厚の背後の江沢民レジーム総体との、食うか食われるかの死闘になる。APEC首脳会議が終わると紀律委の王岐山は、北京から離れた安徽省の桐城に紀律委の捜査幹部を集めた。王岐山は「中央巡視工作班」を再編し、「今後は地方巡視方式ではなく、特定の人間や機構に絞って捜査する」と宣言した。
7.具体的には、江沢民派が支配する中国石油、南方航空など国有企業の名前が挙がっている。では人物はだれなのか。薄煕来、徐才厚、周永康に匹敵する人物がまだいる。米中首脳会談を前に米国のシンクタンク、ブルッキングス研究所が行ったシンポジウムで著名な中国専門家たちが習近平政権を分析した。中国は「虚弱な国家」であり、習政権は「安定した政権ではない」という意見だった。APECでは中華帝国の皇帝のように振る舞った習近平だったが、次の権力闘争に勝つまで足元は危うい。
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1.北京で先月開かれたアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会談は、習近平にとって中国の国家主席が米国大統領と並ぶ世界の二大指導者となったと内外に宣言するイベントだった。オバマ米大統領、プーチン露大統領ら各国首脳が清朝時代の衣装をアレンジした中国服を着てホスト役の習近平国家主席に握手を求めた。これを中国国営メディアは「万邦来朝」と表現した。周辺の属国の王がこぞって朝貢するという中華帝国のイメージだ。これが、習近平政権の掲げた「中華民族の偉大な復興」だ。
2.APEC首脳会議が終わるとすぐ、それまでの高揚が雲散霧消する事件が起きた。海軍司令部ビルの15階から海軍副政治委員の馬発祥中将が飛び降り目殺した。副政治委員は、海軍の共産党組織のトップである政治委員に次ぐ高官である。軍内の粛清は、党中央紀律検査委員会がこの6月、党中央軍事委員会前副主席の徐才厚上将(当時)を汚職で立件して一段落したと思われていたが、そうではなかった。軍の粛清再開は、いまだ軍を掌握できない習近平の焦りとみられる。軍を掌握できない皇帝は裸の皇帝にすぎない。
3.現在の海軍政治委員は、共産主義青年団(共青団)派の始祖、胡耀邦元総書記の娘婿だが、新兵器開発部門出身の馬中将は、従来の主流派である徐才厚派だ。書道の達人で、同じく書道が趣味の徐才厚と軍人書道同好会を作っていた。馬中将事件の数日後、吉林省軍区の現職副政治委員の少将が首をつった。吉林省軍区は徐才厚が基盤としていた東北軍の支配下にある。実は、海軍ではこの2カ月前にも、東海艦隊の基地がある浙江省舟山市のホテルで南海艦隊の装備部長が飛び降り自殺している。装備部長は兵器納入を担当する利権ポスト。徐才厚事件の捜査はまだ終わっていない、という動揺が軍の中に広がっていた。
4.中国の汚職捜査では、金庫番の副職を摘発し、党最高指導部の許可が出ると上部の「巨悪」逮捕へ進み、不許可の場合は副職で止めるのが定石である。習近平、王岐山は東北、西北という軍主流の二大軍閥と険悪な関係にある。習近平政権の人民解放軍は、総参謀長、総政治部主任とも、これまで主流派から外れていた広東軍の出身である。江沢民時代に、江沢民を牽制していた中央軍事委秘書長だった楊白泳を軍から追放し、この功績によって徐才厚以前から東北軍は江沢民の地元の南京軍区とともに江沢民政権の主流を占めた。今後、徐才厚派の残党摘発が始まるとすれば、習近平が闘う本当の相手は江沢民ということになる。
5.習近平は、APECでオバマ大統領と会談する直前に、わざわざ北京から遠く離れた山奥に来て「党の軍に対する優越」を確認するよう迫った。米中の軍事対立を回避する合意の直前になって、軍が習近平の党中央に反対していたと考えられる。福建省は習近平だけでなく副主席の許其亮のかつての勤務地である。
6.これから始まる反対派の摘発は徐才厚の背後の江沢民レジーム総体との、食うか食われるかの死闘になる。APEC首脳会議が終わると紀律委の王岐山は、北京から離れた安徽省の桐城に紀律委の捜査幹部を集めた。王岐山は「中央巡視工作班」を再編し、「今後は地方巡視方式ではなく、特定の人間や機構に絞って捜査する」と宣言した。
7.具体的には、江沢民派が支配する中国石油、南方航空など国有企業の名前が挙がっている。では人物はだれなのか。薄煕来、徐才厚、周永康に匹敵する人物がまだいる。米中首脳会談を前に米国のシンクタンク、ブルッキングス研究所が行ったシンポジウムで著名な中国専門家たちが習近平政権を分析した。中国は「虚弱な国家」であり、習政権は「安定した政権ではない」という意見だった。APECでは中華帝国の皇帝のように振る舞った習近平だったが、次の権力闘争に勝つまで足元は危うい。
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満州国は満州事変の翌年、1932年(昭和7年)に建国された。新聞やニュース映画での宣伝で、約32万人が満州移民として海を渡った。
「田原総一朗著:私が伝えたい日本現代史1934-1960、ポプラ社、2014年」は参考になる。「第1章:満州事変から2・26事件」の印象に残った部分の概要を自分なりに補足して纏めると以下のようになる。
1.田原総一朗氏が生まれた1934年(昭和9年)は平和な時代と思っていたが、とんでもないことが起こっていた時代だった。1931年(昭和6年)、9月18日の夜、中国、奉天近くの柳条湖というところで南満州鉄道の線路が爆破された。これがきっかけで満州事変が始まった。満州事変は「日本にとっては自衛のための戦争だった」と聞かされていた。中国軍が満鉄(南満州鉄道)の線路を爆破し、日本軍がそれに怒って中国軍を攻撃したと言われていた。
2.満鉄線を爆破したのは、実は日本軍だった。満州を取りしきっていた関東軍という陸軍部隊が、線路を爆破させた。わざわざ鉄道線路を爆破し、それを中国軍のせいにして戦争をひき起こそうという、とんでもない行動を起こした中心人物は、関東軍の主任参謀である石原莞爾中佐だった。
3.石原は、満州に日本が支配する国家をつくろうとした中心人物である。目的は、中国に日本が支配する満州という国をつくるためだった。「五族協和」「王道楽土」が日本の考えた満州国のキャッチフレーズだった。満州国の国旗は、赤、青、白、黒、黄の5色で、日本人、朝鮮人、満州人、モンゴル人、漢人の5つの民族を表し、5つの民族(五族)が、平等に協力して理想の国家(王道楽土)が、満州国だと言っていた。満州国は満州事変の翌年、1932年(昭和7年)に建国された。新聞やニュース映画での宣伝で、約32万人が満州移民として海を渡った。
4.石原莞爾は、1889年(明治22年)、山形県鶴岡市に生まれ、13歳で仙台陸軍地方幼年学校に入学した。陸軍の将来の幹部将校候補を養成するためにつくられた全寮制の学校である。石原とともに柳条湖での爆破事件にかかわった板垣征四郎も、石原の3学年上に在籍していた。石原は一癖ある性格で、生活態度もふまじめで、変わり者で有名だったが、成績は優秀で、教官たちも石原の能力は高く評価していた。
5.柳条湖での爆破事件当時の総理大臣は若槻礼次郎で、外務大臣は幣原喜重郎だった。石原莞爾は39歳で関東軍の参謀中佐となり満州の旅順に着任した。日本は満州と蒙古を領土として支配すべきだ、と満蒙占領論を強く唱えた。中国人は政治能力が低い。中国人に代わって日本が満州と蒙古を支配するべきで、それが中国人にとっても幸福なことになるはず、信じていた。
6.若槻も幣原も、満鉄線が中国軍により爆破されたという報告には、最初から強い不信感を抱いていた。こんな戦いを始めれば、中国を刺激して非常にやっかいなことになると考えた。政府は、満州事変を大きく拡げないで、できるだけ早く終結させる、という不拡大政策をとるつもりだった。
7.関東軍や陸軍省は、逆にこの戦争を拡大させて中国軍を徹底的にたたき、満州を早く自分たちのものにしたいと考えていた。若槻政府は、天皇は『事変の拡大をやめよ』という意思を持っている、と軍部に天皇の言葉までひきあいに出して事態を収拾しようとしたが、失敗に終わった。
8.満州事変が大きな戦争になるか局地的な争いのまま終われるかの分かれ目は、関東軍が錦州への攻撃を行うかどうかだった。錦州には、中国軍を指揮する張学良が拠点をおいていた。
アメリカも、日本の錦州攻撃には強く反対したが、関東軍は石原莞爾の作戦で、錦州に空爆攻撃をしかけた。
人間の筋肉が「筋繊維」で構成されているので、人工筋肉と繊維の親和性は高い。信州大学には繊維学部があり、そこでさまざまな研究が行われている。
「高齢化社会で期待集まる人工筋肉の開発最前線、選択、2014.12」は参考になる。概要を自分なりに纏めると以下のようになる。
1.人間の身体は緻密に計算された「機械」である。あらゆるセンサーが備わり、その情報を処理する脳という高性能コンピューターで制御される。情報処理をするという点だけなら、技術進歩によって本当の機械にも同等のことが可能になる。人間はそれらの命令を元に身体を動かし、あらゆる運動や作業をこなすことができる。
2.動くことを可能にしているのは、形態を維持する骨格と骨格筋である。身体の筋肉は細い繊維の束でありながら、わずかなエネルギーで大きな出力を出す。機械ならば、モーターやエンジンが使用されるが、それらでは真似できないスムーズで複雑な動きを可能にしているのは筋肉である。
3.何らかの理由で筋肉、もしくは骨格も含めて損傷して治癒が望めない場合に代替する人工筋肉の研究は昔から行われている。老化などの要因で筋力が衰えた際に、それを補助する役目が期待されている。
4.岡山大学の研究グループは昨年、地元中小企業や韓国のサムスン電子グループなどと共同で極小の人工筋肉の開発に成功した。当時岡山大学教授の鈴森康一教授(現東京工業大学教授)は、では、池田製紐所に共同研究を持ちかけた。池田製紐所は倉敷市に本拠を置く組紐メーカーで、従業員は30人程度の中小企業である。さまざまな種類の繊維をらせん状に巻いて、衣料用から漁業用まで幅広い種類の紐を作っている。
5.マッキベン型人工筋肉は、50年以上前に米国のジョセフ・マッキベンによって原理が開発された人工筋肉である。ゴム製のパイプを繊維で巻き、内部に空気を注入することで収縮させる。空気圧で膨らませるという初歩的な原理はそのままに、現在でも改良が続けられ、出力を保ったまま小型化することが求められている。ポイントは空気を送り込まれて膨らむチューブに巻きつける繊維の密度。粗い目ではチューブが膨らみ過ぎ、反対に高密度で編み込むと膨らみが足りずに十分な収縮を実現できない。素材も含めて絶妙なバランスの密度や編み方が必要になる。結果として高強度繊維を最適な密度で編むことに成功、世界最小の人工筋肉を実現した。
6.ここで活躍したのが、古くからの繊維街である倉敷の池田製紐所の技術である。鈴森教授は民間企業から大学教授に転出した人物。同教授の発想が、地元産業に光明をもたらした成果である。
7.人間の筋肉が「筋繊維」で構成されているからか、人工筋肉と繊維の親和性は高い。信州大学には繊維学部があり、そこでさまざまな研究が行われている。人間に近い滑らかな動きを実現するためにマッキベン型人工筋肉を改良し、その制御技術を模索している。ここでも、チューブを取り巻く繊維が重要なカギを握る。
8.繊維学部教授の橋本稔教授は、ポリ塩化ビニル(PVC)ゲルを使った人工筋肉の研究に取り組む。PVCゲルは、ポリ塩化ビニルにさまざまな添加物を混ぜたもので、柔軟性を持つほか、電圧をかけると正極の方向に動く。このゲルと導電性のある繊維で作ったメッシュ(網)を何層にも重ねて、メッシュに電圧を加えると、積み重ねた層の縦方向に全体が縮む。電圧をかけるのをやめれば再び元の状態に戻るため、人工筋肉として期待されている。導電性繊維を網状にすることで、ゲルと繊維の間に隙間が生まれ、収縮時に空気の抜け道となり、収縮も大きくなる。マッキベン型と異なり電気を使う人工筋肉だが課題も多く残されている。橋本教授らは、必要な電圧を下げることに取り組んでいる。
9.単純に消費電力を減らす以外に、安全性も考慮されている。現在橋本教授らが取り組んでいるのは、力の出る衣類である。人工筋肉を内蔵した衣類によって、高齢者などの筋力をサポートすることを目指している。人体近くで使用するためには安全な電圧でなければならない。これが実現すれば服を着るだけで力を出せる。
10.PVCゲルのようなゲル素材は有力な材料として他大学でも研究が行われている。名古屋大学大学院工学研究科の竹岡敬和准教授らはゲルに関する新たな成果を今年十月に発表した。高分子ゲルの内部を観察すると、一本に並んだ(直鎖状の)構造物が、隣り合って橋を架けるように繋がりながら網目状に複雑に絡み合っている。この構造によって、伸縮性を持ったり、内部に水分を溜めることができる。紙おむつなどの吸収材に使用されているのも高分子ゲルである。一部の高分子ゲルは、電気などの外部からの刺激によつて体積などを変.化させる特性を持ち、「刺激応答性高分子ゲル」と呼ばれている。力学的に脆いという弱点があり、一方向に伸ばした場合、1.2〜1.5倍まで伸びたところで網目構造が崩壊する。
11.竹岡准教授らのグループは、網目を構成する架橋部分に注目。従来とは異なる架橋剤を用いることで、10倍まで伸長しても崩壊しない構造を作ることに成功した。これまでの架橋剤は、直鎖上構造物の決まった点で繋がっていた。新たな架橋剤は、繋がった点が自由に動けるため、伸ばされても切れることなく高分子ゲルの網目状態を維持することができる。
12.大阪大学大学院理学研究科の原田明特別教授らは、2012年に光によって動く人工筋肉の作成に成功している。刺激応答性高分子ゲルを使ったものだが、照射される光の波長に応じて伸縮をコントロールすることができる。このゲルを用いたアクチュエータを実際に作成しているが、電気を使わぬ制御であれば、人体への安全性を確保することができる。
1.人間の身体は緻密に計算された「機械」である。あらゆるセンサーが備わり、その情報を処理する脳という高性能コンピューターで制御される。情報処理をするという点だけなら、技術進歩によって本当の機械にも同等のことが可能になる。人間はそれらの命令を元に身体を動かし、あらゆる運動や作業をこなすことができる。
2.動くことを可能にしているのは、形態を維持する骨格と骨格筋である。身体の筋肉は細い繊維の束でありながら、わずかなエネルギーで大きな出力を出す。機械ならば、モーターやエンジンが使用されるが、それらでは真似できないスムーズで複雑な動きを可能にしているのは筋肉である。
3.何らかの理由で筋肉、もしくは骨格も含めて損傷して治癒が望めない場合に代替する人工筋肉の研究は昔から行われている。老化などの要因で筋力が衰えた際に、それを補助する役目が期待されている。
4.岡山大学の研究グループは昨年、地元中小企業や韓国のサムスン電子グループなどと共同で極小の人工筋肉の開発に成功した。当時岡山大学教授の鈴森康一教授(現東京工業大学教授)は、では、池田製紐所に共同研究を持ちかけた。池田製紐所は倉敷市に本拠を置く組紐メーカーで、従業員は30人程度の中小企業である。さまざまな種類の繊維をらせん状に巻いて、衣料用から漁業用まで幅広い種類の紐を作っている。
5.マッキベン型人工筋肉は、50年以上前に米国のジョセフ・マッキベンによって原理が開発された人工筋肉である。ゴム製のパイプを繊維で巻き、内部に空気を注入することで収縮させる。空気圧で膨らませるという初歩的な原理はそのままに、現在でも改良が続けられ、出力を保ったまま小型化することが求められている。ポイントは空気を送り込まれて膨らむチューブに巻きつける繊維の密度。粗い目ではチューブが膨らみ過ぎ、反対に高密度で編み込むと膨らみが足りずに十分な収縮を実現できない。素材も含めて絶妙なバランスの密度や編み方が必要になる。結果として高強度繊維を最適な密度で編むことに成功、世界最小の人工筋肉を実現した。
6.ここで活躍したのが、古くからの繊維街である倉敷の池田製紐所の技術である。鈴森教授は民間企業から大学教授に転出した人物。同教授の発想が、地元産業に光明をもたらした成果である。
7.人間の筋肉が「筋繊維」で構成されているからか、人工筋肉と繊維の親和性は高い。信州大学には繊維学部があり、そこでさまざまな研究が行われている。人間に近い滑らかな動きを実現するためにマッキベン型人工筋肉を改良し、その制御技術を模索している。ここでも、チューブを取り巻く繊維が重要なカギを握る。
8.繊維学部教授の橋本稔教授は、ポリ塩化ビニル(PVC)ゲルを使った人工筋肉の研究に取り組む。PVCゲルは、ポリ塩化ビニルにさまざまな添加物を混ぜたもので、柔軟性を持つほか、電圧をかけると正極の方向に動く。このゲルと導電性のある繊維で作ったメッシュ(網)を何層にも重ねて、メッシュに電圧を加えると、積み重ねた層の縦方向に全体が縮む。電圧をかけるのをやめれば再び元の状態に戻るため、人工筋肉として期待されている。導電性繊維を網状にすることで、ゲルと繊維の間に隙間が生まれ、収縮時に空気の抜け道となり、収縮も大きくなる。マッキベン型と異なり電気を使う人工筋肉だが課題も多く残されている。橋本教授らは、必要な電圧を下げることに取り組んでいる。
9.単純に消費電力を減らす以外に、安全性も考慮されている。現在橋本教授らが取り組んでいるのは、力の出る衣類である。人工筋肉を内蔵した衣類によって、高齢者などの筋力をサポートすることを目指している。人体近くで使用するためには安全な電圧でなければならない。これが実現すれば服を着るだけで力を出せる。
10.PVCゲルのようなゲル素材は有力な材料として他大学でも研究が行われている。名古屋大学大学院工学研究科の竹岡敬和准教授らはゲルに関する新たな成果を今年十月に発表した。高分子ゲルの内部を観察すると、一本に並んだ(直鎖状の)構造物が、隣り合って橋を架けるように繋がりながら網目状に複雑に絡み合っている。この構造によって、伸縮性を持ったり、内部に水分を溜めることができる。紙おむつなどの吸収材に使用されているのも高分子ゲルである。一部の高分子ゲルは、電気などの外部からの刺激によつて体積などを変.化させる特性を持ち、「刺激応答性高分子ゲル」と呼ばれている。力学的に脆いという弱点があり、一方向に伸ばした場合、1.2〜1.5倍まで伸びたところで網目構造が崩壊する。
11.竹岡准教授らのグループは、網目を構成する架橋部分に注目。従来とは異なる架橋剤を用いることで、10倍まで伸長しても崩壊しない構造を作ることに成功した。これまでの架橋剤は、直鎖上構造物の決まった点で繋がっていた。新たな架橋剤は、繋がった点が自由に動けるため、伸ばされても切れることなく高分子ゲルの網目状態を維持することができる。
12.大阪大学大学院理学研究科の原田明特別教授らは、2012年に光によって動く人工筋肉の作成に成功している。刺激応答性高分子ゲルを使ったものだが、照射される光の波長に応じて伸縮をコントロールすることができる。このゲルを用いたアクチュエータを実際に作成しているが、電気を使わぬ制御であれば、人体への安全性を確保することができる。
5・15事件の大川周明、公家や侍が天下を取り、天皇を守ってきたが、天皇の周りには、腐敗し堕落した財閥や政治家たちがむらがった、と考えた。
「田原総一朗著:私が伝えたい日本現代史1934-1960、ポプラ社、2014年」は参考になる。「第1章:満州事変から2・26事件」の印象に残った部分の概要を自分なりに補足して纏めると以下のようになる。
1.満州事変の起きた1931年(昭和6年)の12月、若槻内閣は総辞職に追い込まれた。この総辞職の直接の原因は、陸軍の幹部たちがクーデターをはかった「10月事件」である。その中心人物となっていたのは、橋本欣五郎中佐だった。
2.橋本たちの考えは、「天皇と国民の間に財閥という金持ち連中がいる。財閥から金を得ている政党の政治家たちがいて、その地位を利用した不正な手段で金を儲けている。今の世の中は、財閥や政治家たちが労働者や農民を痛めつけて金を儲けるという腐敗堕落が平然と行われている。これを放置したら、日本は悪い方向に行く」である。彼らのクーデターは、未遂に終わった。
3.若槻首相に代わって首相になった犬養毅は若槻と違って満州事変に反対せず、戦争を縮小させようともしなかった。軍部の行動は仲間だけで、秘密裏に計画を練らなくてはいけないのに、毎晩料亭で、どんちゃん騒ぎをしながらクーデターの話で盛り上がっていたのである。。情報が軍の中枢部などに漏れてしまった。
4.クーデターが起こりかけたという責任を取らされて、若槻内閣は総辞職に追い込まれましたが、クーデターを計画した軍人たち自身は、まったく罰せられなかった。軍部の声はしだいに大きくなり、満州事変はどんどん拡大していった。
5. 1932年(昭和7年)5月15日、海軍の青年将校たちが首相官邸などを襲撃した。犬養首相は、突然乱入してきた将校たちを応接室に通し、「話せばわかる」と言って話しあいに持ち込もうとしたが、「問答無用」と殺害された。
6.5・15事件に深くかかわり、計画を立てたひとりが大川周明である。大川周明は明治19年山形県の酒田市で生まれた。大川家は代々続く医者で、子どものときから本を読むのが好きだった。中学生になったころ、福岡県に八幡製鉄所がつくられ、重工業が発展して、資本主義が発達した。会社や工場を経営して土地やお金などの資本を持つ人と、資本家に雇われる側の従業員・労働者との経済格差が、非常に大きくなった。
7.大川は、金儲け中心の世の中に強く反発し、キリスト教に惹かれ、教会にも通った。教会では、牧師がありがたい話をしているときに寄付を求める入れ物が回ってきて、このことに疑問を抱いた。「人間は、お金を持つ人と持たない人に分けられてはいけない。人間は、何より平等でなければいけない」と考え、そのころ流行していた社会主義にあこがれていった。
8.当時の日本では、金儲け主義の一方で、カール・マルクスの「資本論』がもてはやされていた。資本家や経営者は、労働者から金を搾りとって豊かな暮らしをしている。そのせいで資本家と労働者の格差はどんどん開いていくとマルクスは考えた。国内には金儲けや成功の秘訣を書いた本が溢れかえっていた。
9.「資本家から搾取される労働者は、奴隷のような状態である。農民も同じように奴隷のような状態である。いつの日か革命を起こし、平等な社会を打ち立てなければならない」とマルクスの『資本論』には書かれている。大川は、このマルクスの主張に強く打たれた。
10.大川は、東京帝国大学に入学した。たまたま、親しい先輩に頼まれて、歴代の天皇の伝記をまとめることになった。彼は、日本の中心は天皇であるという思いを強くした。日本は奈良・平安の昔から明治維新までの千数百年、公家や侍が次々と天下を取り、さまざまな時代があった。どの時代でも、政治を行う者は誰もが天皇を守ってきた。日本の歴史は、天皇一本でつながっている。こんな国は世界に他にはない、しかし、天皇の周りには、腐敗し堕落した財閥や政治家たちがむらがり、彼らが日本をねじ曲げようとしている、と考えた。
11.大川周明は終戦後、A級戦犯の容疑者として逮捕され、東京裁判に出廷したが、裁判の途中で東条英機元首相の頭を後ろから殴りつけるなどのおかしな行動をとって、精神障害と判断され、裁判から除外された。