2012年03月29日
カトリックがけしからんのは宗教合理化の方向に向かわず、儀礼によって救済が得られるという教えを広めたことにある。
「小室直樹著:論理の方法、東洋経済新報社、2003年」の「第4章マクス・ウェーバーにみる資本主義の精神」の資本主義についての解説は洞察力という点でも面白い。印象に残った部分の概要を自分なりに補足して纏めると以下のようになる。
1.マクス・ウェーバーは、資本主義の精神は資本主義に好意的なところ、寛大だから起こってくるのではないと言っている。例えば中国などでは前期的資本が大発達しただけではなくて資本主義を禁止する思想などはなかった。古代、中世の中国においてはむしろ資本主義に大変好意的であった。盛んに経済活動を行うということは古代中国において褒めるべきことで、資本主義と絶対に敵対する思想がはびこっていたのではなかった。インドでも、古代エジプトでも、ヘレニズム社会でも中世ドイツでもそうだったが、そういうところでは資本主義は起こらなかった。
2.ヨーロッパのキリスト教については、ローマ教会では利子を取ることに表向きは大変敵対的であった。キリスト教が盛んになるにつれて世の中の王様や首相、共和国大統領なども教会に見習って、利子を取ることを禁止した。ところがカトリックの利子禁止令は他の禁止令と同様に、見かけは厳しいように見えながら実は抜け道があった。カトリックの神父とか、僧正とか大僧正などは、信者に対しては利子を取ってはならないとか商売で大儲けしてはならないと言っていながら、自分たちは密かに高利貸しを許していた。それどころかローマ法王庁では高利貸しと結託して大儲けしていた。宗教改革のときに改革側の人々はこういうことをカトリック攻撃の一つの材料として使った。
3.宗教というのは大きくなれば必ずスキャンダルが湧いてくる。しかし宗教改革のエッセンスはカトリックのスキャンダルを暴くことではなく、カトリックがけしからんのは宗教合理化の方向に向かわないで、その正反対の方向に向うこと、すなわち儀礼によって救済が得られるというとんでもない教えを広めたことにある。
4.宗教改革によってキリスト教を少なくともその一部は徹底的に合理化した。このことによって資本主義の精神が登場した。だから近代西ヨーロッパと北米の一部分に限って資本主義が勃興した、とウェーバーは説明している。プロテスタントはカトリックの儀礼によって神様に祈りを捧げても意味はないといって呪術を追放し、宗教の合理化を行った。宗教の合理化は呪術、儀礼によって神に救われるという考えを追放する。そのことによって初めて伝統主義を打破して、資本主義の精神がつくられ得る。これがウェーバーの論理のポイントである。
5.資本主義の精神こそ近代資本主義を生み出すために必要不可欠なものであった。資本主義の精神がなければどんなに技術が進歩しても、資金が蓄えられても商業が発達しても、近代資本主義のための産業資本は生まれてこない。前期的資本はどんなに繁栄を極めても依然として前期的資本のままである。
6.この資本主義の精神を生み出すにあたって最も決定的役割を演じたのは予定説である。予定説とはカルヴァンがキリスト教本来の論理として復活させたもので、救われるものと救われないものが予め神の意志で決められているという説である。資本主義の精神が生まれ、発育してゆくためには精神革命が必要であった。精神革命による行動的禁欲で呪術を駆逐し合理化を推し進めるようにエトスが変えられなければならなかった。
7.誰が救済され、誰が救済されないかは神が一方的に意志決定する。そして、必ず神の意志どおりになる。神のこの意志決定は天地創造のときになされ、人間がこれに関与することも変更することも不可能である。人間の偉業、行為の是非善悪は少しも関係しない。人間が神の意志決定を知ることは不可能である。カルヴァンが予定説を公表したことは人々の心を極限に追いつめた。神に選ばれた救済される予定の人はそのように行動するに違いない。もはや、一つ一つの善行は問題ではない。すべての行動が統一的に組織化され、人は行動的禁欲なり切らなければならない。伝統主義的エトスが打破されて資本主義の精神によって生成されたエトスに変換されたのである。
論理の方法―社会科学のためのモデル
クチコミを見る
1.マクス・ウェーバーは、資本主義の精神は資本主義に好意的なところ、寛大だから起こってくるのではないと言っている。例えば中国などでは前期的資本が大発達しただけではなくて資本主義を禁止する思想などはなかった。古代、中世の中国においてはむしろ資本主義に大変好意的であった。盛んに経済活動を行うということは古代中国において褒めるべきことで、資本主義と絶対に敵対する思想がはびこっていたのではなかった。インドでも、古代エジプトでも、ヘレニズム社会でも中世ドイツでもそうだったが、そういうところでは資本主義は起こらなかった。
2.ヨーロッパのキリスト教については、ローマ教会では利子を取ることに表向きは大変敵対的であった。キリスト教が盛んになるにつれて世の中の王様や首相、共和国大統領なども教会に見習って、利子を取ることを禁止した。ところがカトリックの利子禁止令は他の禁止令と同様に、見かけは厳しいように見えながら実は抜け道があった。カトリックの神父とか、僧正とか大僧正などは、信者に対しては利子を取ってはならないとか商売で大儲けしてはならないと言っていながら、自分たちは密かに高利貸しを許していた。それどころかローマ法王庁では高利貸しと結託して大儲けしていた。宗教改革のときに改革側の人々はこういうことをカトリック攻撃の一つの材料として使った。
3.宗教というのは大きくなれば必ずスキャンダルが湧いてくる。しかし宗教改革のエッセンスはカトリックのスキャンダルを暴くことではなく、カトリックがけしからんのは宗教合理化の方向に向かわないで、その正反対の方向に向うこと、すなわち儀礼によって救済が得られるというとんでもない教えを広めたことにある。
4.宗教改革によってキリスト教を少なくともその一部は徹底的に合理化した。このことによって資本主義の精神が登場した。だから近代西ヨーロッパと北米の一部分に限って資本主義が勃興した、とウェーバーは説明している。プロテスタントはカトリックの儀礼によって神様に祈りを捧げても意味はないといって呪術を追放し、宗教の合理化を行った。宗教の合理化は呪術、儀礼によって神に救われるという考えを追放する。そのことによって初めて伝統主義を打破して、資本主義の精神がつくられ得る。これがウェーバーの論理のポイントである。
5.資本主義の精神こそ近代資本主義を生み出すために必要不可欠なものであった。資本主義の精神がなければどんなに技術が進歩しても、資金が蓄えられても商業が発達しても、近代資本主義のための産業資本は生まれてこない。前期的資本はどんなに繁栄を極めても依然として前期的資本のままである。
6.この資本主義の精神を生み出すにあたって最も決定的役割を演じたのは予定説である。予定説とはカルヴァンがキリスト教本来の論理として復活させたもので、救われるものと救われないものが予め神の意志で決められているという説である。資本主義の精神が生まれ、発育してゆくためには精神革命が必要であった。精神革命による行動的禁欲で呪術を駆逐し合理化を推し進めるようにエトスが変えられなければならなかった。
7.誰が救済され、誰が救済されないかは神が一方的に意志決定する。そして、必ず神の意志どおりになる。神のこの意志決定は天地創造のときになされ、人間がこれに関与することも変更することも不可能である。人間の偉業、行為の是非善悪は少しも関係しない。人間が神の意志決定を知ることは不可能である。カルヴァンが予定説を公表したことは人々の心を極限に追いつめた。神に選ばれた救済される予定の人はそのように行動するに違いない。もはや、一つ一つの善行は問題ではない。すべての行動が統一的に組織化され、人は行動的禁欲なり切らなければならない。伝統主義的エトスが打破されて資本主義の精神によって生成されたエトスに変換されたのである。
論理の方法―社会科学のためのモデル
クチコミを見る