2012年06月29日
農業は新しい農的価値として蘇らせるべきである。新しい農的価値とは、生きる、働く、暮らすを統合する力の基盤になるものである。
もうひとつの日本は可能だ
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「内橋克人著:もうひとつの日本は可能だ、光文社、2003年」の「2章:幻だった約束の大地」の「「一喜一憂資本主義」を超えて」は未来の日本の姿を示唆する興味深い内容である。印象に残った部分の概要を自分なりに補足して纏めると以下のようになる。
1.日本の農業は、非効率的で衰退産業であるかのような位置づけられているが、農業を衰退させてしまっては、生存条件の最大の基盤である「食」の自給権を失ってしまい、結果は他国への従属的ともいえる依存になる。
2.農業は新しい農的価値として蘇らせるべきである。新しい農的価値とは、生きる、働く、暮らすを統合する力の基盤になるものである。働く条件、暮らす条件がよくなって、初めて生きる条件がよくなる。それらを統合した存在として人間は存在できる。
3.給料が上がって働く条件がよくなっても、とんでもないインフレになると、暮らしの条件は悪くなり、生きる条件も悪くなる。あらゆるものの価格が、下がって暮らしやすくなると喜んでいたら、いつの間にか実質賃金も下がって、働く条件は悪化していたというのがここ数年の現象である。この10年、物価が下がれば、消費者の利益だと、過剰にそれを強調してきた。その結果、いまや単なる賃下げどころでなく、賃金体系の総入替え時代が到来している。
4.あらためて人は、人生とは「生きる」「働く」「暮らす」の統合だ、という認識を強くもつようになってきた。消費側面だけよくなっても、あるいは物価だけ下がっても、幸せにはなれない。賃金はそれ以上に下がる。そういうことを実感として体得しているのは、都市生活者より農村祉会に生きる人びとに多い。
5.農業では、農業を営むという行為が即、「働く」行為であり、「暮らす」行為であり「生きる」行為であり、それらが一体となった生業である。豊穣な実りの前でにこやかに笑っている生業農家の人たちは、人々にF(食料)とE(エネルギー)とC(ケア)の統合された人の生き方の大切さを教えてくれる。そういう意味で、大規模資本による農業でなく、自営農業の日本的な再生をこそ「新しい田舎づくり」だと考える。
6.アメリカ型の大規模農業に憧れる人びとには意外と映るかもしれないが、日本国内での日本型農業は成長産業である。アメリカ農業に対抗しようと農家は国の指導に従って規模拡大にしのぎを削ってきたが、大規模化してみると、トラクターなどの機具の購入、土地の購入などで借り人れたお金が嵩んで、その金利がバカにならない。金利負担に耐えかねた農家がつぶれ、そこへ大企業が進出してくれば、それはまさしくアメリカ型企業農業(アグリビジネス)への転換である。
7.北海道には酪農家は一軒もいない。あるのは搾乳業だけである。牛の乳を絞って雪印などの大企業に納入するだけの仕事である。それはもはや酪農とはいわない。酪農家とは、我が家で搾乳した牛乳を原料として自家秘伝のチーズをつくる、バターをつくる、など自慢の乳製品に仕上げて、それを消費者に供するのが酪農家である。
8.北海道の農家は国の指導に従って大規模化してきたけれども、個々の作業は逆に細分化、歯車化されてしまって、まるで都市における下請け企業のようになってしまった。もともと日本の農業は、生きる、働く、暮らすの統合としての生業であったはずである。それがこの30年ほどでいつの間にか崩壊してしまった。