2013年10月30日

新島裏と死別してから、八重はシングルライフを楽しんだ。余生の42年間、日清・日露戦争に際して広島と大阪で篤志看護婦をした後、裏千家の茶人として過ごした。

「本井康博著:八重の桜・裏の梅、學士會会報 No.902(2013-)」が面白い。著者は、同志社大学神学部元教授である。特に新島八重(1845〜1932と新島襄の生涯に関する記述が興味深い。印象に残った部分の概要を自分なりに補足して纏めると以下のようになる。
1.新島八重の生涯は三分割するとよく分かる。
(1)会津時代(1845〜1871):NHKのポスターに登場する八重役の綾瀬はるかさんは「腰に刀、腕に鉄砲」という扮装で、明らかに戊辰戦争時代の山本八重子である。「会津のジャンヌ・ダルク」として描かれ、86年の生涯の最初の26年に相当し、少女時代、初恋、戊辰戦争、白虎隊、最初の夫である川崎尚之助との結婚と離別、米沢避難の時代である。
(2)京都時代(1871〜1890):鳥羽伏見の戦いで戦死したと思っていた兄(山本覚馬)が実は生きていたと知り、避難先の米沢から兄を頼って上洛するところから、八重の京都時代は始まる。八重は以後、86歳で亡くなるまで62年問を京都で過ごすが、新島嚢と出会い、死別するところで京都時代を前半である。八重はクリスチャンになり、牧師夫人になり、校長夫人になり、14年間を新島襄と二人三脚で歩みました。欧米流のレディファーストの身
に付いた襄と男勝りの八重は似合いの夫婦だったが、男尊女卑の根強い世間からは「悪妻」と評された。また、薩長出身の学生を冷遇し、西洋の感覚を身に付けながらも武士の誇りと道徳にこだわり、周囲との軋礫を生み、学生の一部からは非難された。
(3)京都時代(1890〜1932):新島裏と死別してからの余生を、八重はシングルライフを楽しむ元気なお婆ちゃんとして過ごした。余生といっても42年間に及ぶが、日清・日露戦争に際して広島と大阪で篤志看護婦をしたこと、晩年の30数年を裏千家の茶人として過ごし、死ぬ前日も茶会を開いていた。
2.新島裏の生涯(1843〜1890)
(1)江戸で侍時代(1843〜1864):神田一ツ橋にあった上州安中藩邸上屋敷で、下級武士の祐筆の息子として生まれた。21歳まで江戸藩邸で暮らしたが、2度目に仕えた藩主とそりが合わず、当時は禁止されていた海外渡航を思い立ち、アメリカへ向けて函館より密出国した。
(2)留学生時代(1864〜1874):ボストンに着いた新島は、以後10年間を海外で過ごした。ボストン入港後にアメリカの篤志家夫妻と知り合った新島は、夫妻の援助で、幸運にも超一流校で教育を受ける機会に恵まれた。まず、フィリップス・アカデミー高校に入学し、在学中に洗礼を受けた。次に進学したアーモスト大学は、リベラルアーツカレッジで、4年間、自然科学、社会科学、人文科学といった一般教養と、その基礎となる語学だけを学ぶ。医学や法学などの専門は大学院に進学してから学ぶことになっていた。卒業生に授与されるのは、文学士という学位のみであった。新島は元来、理系が好きだったようです。幕府
の軍艦操練所に通っていた頃のノートがたくさん残っている。測量術、算術、地質学などが得意だったことが窺われる。その後、アンドーヴァー神学校という大学院に進学し、1874年に卒業した。牧師の免許を取得して帰国した。
(3)京都で校長・牧師時代(1875〜1890):神学校を卒業した新島は、宣教師団体アメリカン・ボードの試験を受けて宣教師の資格を取得し、「日本にキリスト教主義の大学を設立する」という使命を得て、1874年、帰国した。当時、日米通商修好条約などの制約で、宣教師たちが居住し、学校を設立してもよい場所は、開港地と居留地に限られていた。アメリカン・ボードの日本での拠点は神戸と大阪だった。大阪での大学設立を目指したが、府知事がキリスト教系の大学設立に難色を示したため、計画は土壇場で頓挫した。実際に大学が設立されたのは、京都だったが、京都と同志社という取り合わせは、本来なら絶対にありえなかった。
(4)可能になった背景には、八重の兄、山本覚馬との出会いがあった。当時の覚馬は京都府の顧問を務めていた。いわば知事のブレーンで、府政を指導する立場だった。覚馬が新島の学校設立に協力を約束した。覚馬は、維新後に自ら購入していた旧薩摩藩邸跡地を学校用地として新島に譲渡し、新島と連名で「私塾開業願」を文部省に提出し、知事の認可も取りつけた。クリスチャンがほぼ存在しなかった時代に、保守的な京都の御所と相国寺に隣接した一等地に、キリスト教の学校を設立することは、山本覚馬というコネがあってこそ可能だった。1875年、同志社英学校が設立さた。以後、新島は亡くなるまでの14年間、初代校長を務めながら、同志社英学校を同志社大学にしようと尽力した。新島は大学設立のための募金活動のさ中に前橋で倒れ、1890年、静養先の大磯で46歳で帰らぬ人となった。正式に大学に昇格したのは、死後30年たった1920年のことである。八重は存命だった。




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池上湖心 プロフィール
○略歴
大東文化大卒、
在学中 上條信山に師事
書象会に所属、書象会理事
審査会々員
○作品展の開催
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・土曜会(グループ展)
 作品展を毎年10月開催
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