2015年09月29日
日本の大学入試制度を憎むのは、人間の可能性を潰しているからである。いい大学に入れれば、いい生活ができるという幻想で、子供たちは、受験勉強をさせられている。
「中村修二著:怒りのブレイクスルー、集英社、2004年」の「はじめに」の「日本の悪いところをどんどん発言していこう」の小節は参考になる。印象に残った部分の概要を自分なりに補足して纏めると以下のようになる。
1.中学・高校時代、先生の教えをまじめに聞き、学校から「大学受験がすべてだ」と言われれば、疑問を抱くことなく、いい大学から会社へ入ることを目指して勉強している。こうしたことを思い返してみると、社会人になってからの私は、日本の教育制度の呪縛からまだ抜け切れていなかった。
2.娘たちができると、彼女たちが次第に受験制度、教育環境のなかで押し潰されていくのがわかった。小学校の低学年あたりから、急に外で遊ぼなくなり、「なぜ外で遊ばないのか」と聞くと「遊び相手がみんな塾へ通ってしまって相手がいない」と答えた。塾へ行けば遊び相手がいるので仕方なく娘たちも塾通いである。
3.自分の好きなこと、やりたいことがあるのに、勉強ばかりしなくてはならない。将来の夢をあきらめ、勉強に押し潰されていく娘たちを見ると、日本の教育制度に対する強烈な怒りで腹が立った。自分自身の非力さを情けなく思った。
4.これほどまで日本の大学入試制度を憎んでいるのは、「人間の個性と可能性を窒息させているシステム」だからである。いい大学に入れれぽ、いい会社に行け、いい生活をおくることができるという幻想のもと、日本の子供たちは、小さいころからずっと受験勉強をさせられて育っていく。
5.現状では、たった1回の入試でいい点を取れるかどうかで、ほとんどすべてが決まる。その試験は暗記物中心、知識偏重のものでしかない。考えて解決方法を探り出したり、知恵を絞って新しい発見をしたりする能力を評価するものではない。1度の暗記試験だけで、人間を評価することなど不可能である。暗記の得意な子供もいれば、じっくりと考えることが好ぎな人間もいる。
6.ひとりでものごとを判断し、ひとりでなにかを達成できるということは、とても大切な能力である。教育とは本来、その人間の能力や才能、得意分野をより伸ばしてくれるものであるはずである。暗記物偏重の大学入試では、暗記物が得意な人間だけしか合格できない。暗記などは、
コンピュータにでもやらせておけばいい。
7.独創的な個人は、この世界にたくさんいる。ひとりの天才が革新的な偉業を達成し、企業を興したり歴史を変えたりする。社会には、こうした「独創的個人」や「ひとりの天才」を生み出すことも必要である。今の日本からは、もう生まれてこない。
8.明治維新後、日本はずっと先進諸国の「下請け」をしてきた。これは、企業社会と同じような構造である。先進国がすでに旨味を吸い尽くした製品を、下請けの日本が、改良したりコストを削減したりして、やっとの思いで利潤を絞り出し、作り続けてきた。自らはあまり画期的な新製品を生み出さなくてもよかった。改良して製造単価を削って安くていいものを作るためには、天才的な頭脳はあまり必要ない。画期的な新製品を作り出す「ひとりの天才」より、よってたかって技術改良するための「百人の秀才」が求められ、個性的な「天才」は、組織の和を乱すという理由で敬遠される。
9.平均的な知識や知力を持ったサラリーマンを大量に必要とする。そうでなけれぽ、欠陥品が少なく品質のよい製品を大量に生産することができない。モノ作り分野は比較的、簡単である。米国で考え出された基礎理論をもとにして、改良している技術だからである。パテントなどの権利関係は、こうした開発国に握られているので、せっかく改良して製品化しても莫大な特許使用料を払わなければならない。