2020年01月02日
評論家の佐高信さんが三重野総裁のことを「平成の鬼平」と褒め讃え、バブル潰しを一生懸命やった。地価は5年で5分の1となった。
「半藤一利、池上彰著:令和を生きる、幻冬舎、2019.5.30」は面白い。「第7章:日本経済、失われつづけた30年」の印象に残った部分の概要の続きを自分なりに補足して纏めると以下のようになる。
1.日本で株や士地の投機がはげしくなり、実態以上に資産の価格がふくらむ、いわゆるバブルのきっかけは、1985年9月のプラザ合意である。これからは金融の時代そして国際化の時代になると言われた。当時、国土庁が東京のビルの需要が高まるという予測を発表している。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の中心・東京には海外の企業がどんどん進出しているから、土地が不足すると発表した。
2.これが引き金になり、東京はオフィス不足が深刻になり、この先、、地価はドンドン上がると誰もが思った。うひとつの引き金はNTT民営化である。このとき国がもっていた株を一般に売り出すことになり、NTT株は儲かると噂が広まった。NTT株の公募価格は1株119万7000円。それが2カ月後には318万円になった。ここから一大株取引ブームがはじまった。さらに株ブームをあおったのが「時価発行増資」である。会社が新たに資金を調達するには、銀行からお金を借りて新株を発行して投資家が引き受ける。
3.その新株発行を時価でやり、株価が右肩上がりだから、公募価格も理論値より何割も高く設定された。強気の公募価格でも買い手がついて、そのうえ公開されるとたちまち値が上がる。公募で当たって買ったひとは大儲けをする。こういう事例が毎日のように起きて、株ブーム、株取引の狂乱となっていった。そして企業は莫大な資金調達が可能になった。予想以上に金が集まってしまった。新しい事業に投資してもまだ金が余るので士地を買う、株を買う、となった。その土地を担保にまた金が借り、そのカネでまた土地や株を買う。それがまた値上がりする。ここから一挙にバブルに発展していった。
4.バブルのときに文藝春秋でも、バカな経営陣が怒濤の三誌創刊だと言い出して、新雑誌を三誌も出したあのとき景気がよすぎて、既存の雑誌媒体に広告が収容しきれなくなった。半藤氏は役員で、反対の意を表明したのは自分ひとりだけだった。簡単に新雑誌と言うけど、編集者だけ集めてもダメで、営業も宣伝も人員が必要になるから固定費が膨れ上がる。そう言ってボソボソと反対したが。おまえは経済を何にも知らないと笑われておしまいだった。三誌は全部消えてなくなり、残ったのは新規採用の過剰な人員だけだった。出版界もバブルに浮かれたのである。
5.バブルが崩壊へと向かう決定的な出来事とは、バブルで手にした巨額の資金を元手に、日本の銀行は世界中にどんどん進出した。海外のいろいろな有力企業に日本の銀行が融資すると、欧米の銀行が存在をおびやかされる。当時、海外の金融機関は日本の銀行はやりすぎだと見ていた。日本の銀行を抑えるためにはどうしたらいいかと考え、日本の銀行の財務状況は、自己資本が少ないことに気づいた。
6.一定の自己資本比率を維持しないと、金融機関は国際的な取引ができないというルールを、スイスに本部を置く国際決済銀行でつくった。それかBlS規制で、銀行が株式会社として自分のためにもっているお金が自己資本。自己資本比率というのは、銀行が融資している総額に対して、自己資本がどれだけの割合なのかという比率である。自己資本比率が8パーセント以上いうルールをつくった。
7.日本の銀行は、自分の金は少ないが、たくさんの預金が入ってくるので、それをいろいろなところに貸し出すことができた。自己資本を8%以上にでなければいけないということは、貸し付けを減らすか、自己資本を増やすしかない。この頃、バブルが弾けて日本の金融機関が不良債権を抱え、危うくなってきた。自己資本比率8%を守るために、ひいては自分の銀行を守るためには融資を減らすために貸し渋りが起きた。それによって急激に不況が深刻化した。貸し剥がしもあり、銀行の態度がガラッと変わった。同時に、ほかの面でもバブル退治が行き過ぎた。
8.不動産価格が高騰して、ふつうのサラリーマンがマイホームをもてなくなった。サラリーマンの不満が高まり、政治約になんとかしなければいけない、と政府は手を打った。まずは、土地の値段が上がるのを避けようとして地価税を新設した。不動産取得税とはまた別に、土地の売買に当たって税金をかけることにした。
9.さらに大蔵省が「総量規制」をやった。銀行が不動産や土地の取引にどんどん金を貸すことを止めさせようと、不動産向けの貸し出しを抑えるように指導した。不動産以外の融資の増加率を超えて不動産に貸し付けることを抑えなさいと各銀行に迫った。これを各銀行は付度し、「要するに不動産向けには貸すなということだ」と理解し、銀行は土地を買いたいというひとに金を貸さなくなる。土地を売ろうにも誰も買えなくなった。
10.ここから土地の価格が暴落していった。さらに日銀が、金利を、当時は公定歩合といった。金融引き締めである。あのとき日銀総裁は三重野康さんで、三重野総裁がバブル退治をやっているさなか、評論家の佐高信さんが三重野総裁のことを「平成の鬼平」と褒め讃えた。三重野総裁、あの喩えが気に入ったらしく、鬼平の気分でバブル潰しを一生懸命やった。地価は5年で3分の1、5分の1となった。